いぐちゆうとの雑記ブログ

いぐちゆうとの雑記ブログです。

好きだとか嫌いだとか宣言するなら覚悟しろ!

どうも。


例えばここで、阪神タイガースが好きだと書けば、同じく阪神タイガースを好きな人には好かれるかもしれない。

だが逆に、阪神が嫌いな人には嫌われる可能性もある。



阪神タイガースが嫌いな人の前で、

「私は阪神タイガースのファンです。」と宣言したミュージシャンがいたなら、今までそのミュージシャンのことが好きだったのに、もしかしたらその宣言1つだけで、ミュージシャンごと嫌われる可能性もあるのだ。(そんなことぐらいで嫌うなら、本当のファンじゃなさそうだけどな)






またここで、阪神タイガースが嫌いだと宣言すれば、そうだそうだと共感され、同じく阪神が嫌いな人には好かれるかもしれないが、逆に阪神タイガースが好きな人には嫌われる可能性がある。

「◯◯が好きだ」とか「◯◯が嫌いだ」とか、そういう宣言をすることで、誰かに共感され、ファンを徐々に拡大していくことも出来るので、もちろん良い面もあるにはある。

また、「◯◯が好きだ」と叫ぶよりも、

「◯◯が嫌いだ」と叫ぶ方が仲間は集まりやすいと感じる。(負の感情を持った仲間が集まりやすい)


しかしこれって、結構戦略的に宣言しないと、

足元をすくわれてしまうというか、安易に宣言すべきではないのかもしれないなと思うこともある。

ファンを獲得出来ると同時に、アンチも拡大する怖れがあるからだ。



映画「バトル・ロワイアル」で、

「そいつのことを嫌うってことは、最悪殺される可能性も十分にあるから、覚悟して宣言しろ!」みたいな趣旨を言っていたことがあったけど、感覚としてはあれに近いイメージだ。


「好きなものは好きと 言える気持ち 抱きしめてたい」とマッキーが歌っているけど、この世の中ってなかなかそれが難しいよなと感じる時がある。

「え、そんなものが好きなんですか!?」と自分の好きなものをバカにされたり、自分の贔屓にしていたものを嫌いと言われて、「ガーン!俺はあれが好きなのに!」と密かにちょっとショックを受けたり。

何も難しく考えず、誰の声も気にせず、

好きなものは好きと言いながら、気楽に生きていくことが出来たら、それが1番良いに決まっている。

何か1つ宣言するだけで、ファンとアンチの両方を生み出してしまう宿命からは逃れることは出来ないだろうし、世の中は本当に怖いなという一面もあるにはある。

なので慎重になってしまうという人も、結構多いのかもしれないな。



まあ、こんなことを考えている人の方が、案外少数派かもしれないがw

好きだとか嫌いだとか、

このクソで素晴らしい人間社会で、何かを1つでも宣言する時は、覚悟と勇気を持って宣言して下され。


そこは各自、自己判断でお願いしたい。



おしまい。

ガキの頃はお子さまランチが嫌いだった

どうも。

ガキの頃は、「お子さまランチ」が嫌いだった。

お子さまランチの内容が嫌いだったのではない。

別にハンバーグもエビフライも食えるし、日本の国旗が真ん中に突き刺さっているケチャップライスも食える。

では、お子さまランチの何が嫌いだったのか。


それはお子さまランチを食べることで、お子さま扱いされてしまうということが許せなかったのだ。

お子さまのことをお子さま扱いしても特に何の問題もないのだが、当時の俺は、お子さまでも大人の食べ物を食わせろ思っていた。

人生経験も浅い小学生で、本当に「お子さま」のくせに、お子さま扱いするなと本気で思っていた。

要は大人と同じようなメニューが食べたかったのだろう。


そのせいか、小学生の頃なんてレストランでは自ら進んでお子さまランチを頼んだことはなかったし、大人が食べるような普通のメニューを頼んでいた。

それで親も別に何も言わなかったし、自分の好きなものを注文して良いと、いつも自由にさせてくれた。

親には感謝している。



それから大人になってから、お子さまランチを食べてみたことがあるが、「なかなかいけるやん!」と思ってしまった。

そう、お子さまランチ自体の味や中身は、特に何の問題もないのである。



ガキの頃は大人の方が自由度が高いなと感じていたので、早く大人になりたいと思っていた。

まあ、ガキは背伸びしたくなる時期なのかもしれない。


大人と同じような扱いをして欲しいと思っていた頃が懐かしい。


メニューの内容とかではなく、

我が子がお子さま扱いして欲しくなくて、お子さまランチを嫌いと言っても、どうかそこは怒らず、その背伸びしたい気持ちを汲み取ってやって欲しい。


そいつはそうやって、大人の階段を一歩ずつ歩んでいるのだから。



おしまい。

大学生でチェック柄を着用してる奴のほとんどが、オカンが購入してきたものだとかいう噂

どうも。


大学生でチェック柄を着てる男は、だいたいほとんどの奴がオカンが購入してると掲示板に書いてあった。

在学中、本当かどうかを確かめるため、キャンパス内にいたチェックマン6人に尋ねてみたが、やはり噂は本当であった。

あの掲示板はマジだったのか・・・。

別の広い講義室でチェック柄を着用してる男を見かけたが、

「そうか。あいつも自分のオカンに買ってきてもらったのか。可哀想に。」という気持ちになった。
(実際本当かどうか確認していないのに勝手に決めつけるクソ人間。しかも別にチェック柄を着ていても可哀想ではない)

たまに講義室がチェック柄まみれになる時があったけど、あれは本当に異様な光景だった。

チェックマンが1人。

チェックマンが2人。

チェックマンが3人。

チェックマンが4人。

チェックマンが5人。


・・・。

羊を数えているような気分になる。



自分自身でチェック柄を購入して着ているのだろうか。

それとも服にあんまり興味がなくて、オカンに買ってきてと頼んだら、チェック柄の服を購入されたのか。

それか別に何にも頼んでいないのに、勝手にオカンがチェック柄の服を購入してきたのか。

真意は定かではない。

俺も別にチェック柄は嫌いではないが、

「チェック柄を着用してる=服に興味がなくてオカンが購入してきた=マザコン」みたいな訳の分からん式が、


世の中の人々の頭の中で勝手に組み立てられ、まるでレッテル貼りのようなことがなされていたら、それはもの凄く面倒なことである。

チェック柄が好きな人が、着用しにくい世の中になってしまう。



もし本当にオカンが購入してきているなら、


皆オカンに愛されているんだなと、俺は健やかな気持ちになるけどな。(これもある意味偏見か)




試しに自分のオカンに、服を買ってきてと頼んでみた。


するとやはり俺のオカンも、チェック柄の上着を購入してきた。


各人、服の趣味嗜好は色々あると思うが、

もしかしてほとんどのオカンは、チェック柄が好きなのか・・・。


そういう疑問がわいてきた。



あとそれと、これも偏見かもしれないが、

講義室の前の方の席で、チェック柄を着用してる男は、なんかだいたい頭が賢い気がする。

講義室の前の方の席に座る人は、成績優秀者が多いという研究結果もあるが、しかしなぜあんなにもチェック率が高いのだろう。

不思議だ。

講義室の前の席に座っている方が、講義内容がよく聞き取れるので、自然と成績も良くなるという。

確かにそれは実感として分かる。

俺も全部の講義を前の方の席で聴いていたが、しかしチェック率が高いのはたまたまなのか。

それか「オカン」という生き物のほとんどが、チェック柄を好む傾向にあるのか。

それか頭の賢いオカンが、チェック柄を好む傾向があるのか。

いや「オカン」であっても、チェック柄が嫌いな人もいるだろう。

頭が賢くても、チェック柄が嫌いな人だって中にはいるだろう。



うーん、よく分からんが、なぜなのだろうか。





おしまい。

暇なので読書しまくる その2

どうも。

暇なので読書しまくっている。

とりあえず興味のある書籍をメルカリで購入していき、片っ端から読破している。

暇潰しでアプリゲーをやっていたのだが、何だかそれも飽きてきたのだ。

ゲームってたまにするから面白いのかもしれないな。


ずっとゲーム出来る人は集中力もあるし、それはもう一種の才能だと思う。

他人からは「ゲームばかりして!」と批判されるかもしれないが、俺は単純に凄いと感じるし、もっと誇りに思うべきだ。


31歳ともなると、ある程度は自分の世界が固定されてくる。


なんかこの現状の自己世界に飽きてきた。


それを変革するために、読書しまくることにした。

新たな知識や情報を獲得し、意識的に自己世界に変化をもたらす。

そう、人生は飽きとの闘いである。

この飽きと闘うためには、決して好奇心を失ってはならない。

自分の世界を広げるためには、

新しい人に会ったり、新しい経験を積んだり、新しい情報に触れるしかない。

死ぬまでの間、自分の人生を楽しむために。


おしまい。

「自意識過剰」を消すために

どうも。


一時期、車椅子常用である自分の姿が嫌で、

外出したくないと思ったことがあった。

車椅子常用のまま外出すると、

どうしても普通の人間よりかは目立ってしまうし、

他人の視線がこちらに注がれていることも分かるのだ。

「人はそんなに他人のことを気にしていない」と友人は言ってくれたが、

いわゆる「自意識過剰」というやつかもしれない。

それが顕著だったのは、19歳~23歳頃までのちょうど大学生だった頃である。



教員免許を取得するために大学に通っていたので、

この目的意識が無ければ、多分厳しかったと思う。


いや、己の「自意識過剰」を消すために、そういう目的をわざとたくさん自らに課していた。

今振り返ってみれば、よく毎日通学出来たなと思う。



車椅子を漕いでいる自分の姿が街中の鏡に映る。

なぜこんな姿をしているのだと、一人悶絶する。

健常者と比較しても仕方ない。

それは頭では分かっていたが、でも毎日普通に比較していた。

あの頃の俺は、ネガティブな感情に支配されていた。

ネガティブな感情を払拭するために、よく近所の公園で友人と一緒にランニングをした。

友人も気を遣ってランニングに誘ってくれたのだろうか。

今ではそれが懐かしい。

多少は気が紛れたし、体力作りにもなったので、感謝している。


あれから幾分か年齢を重ねた。

そのせいか、今では何も気にせず普通に外出している。


若い頃に比べて、感覚が鈍感になったのだろうか。

野太くなったとも言えるし、今では正直、他人の視線なんてどうでもいいなと思えている。

不思議だ。





よく他人の視線が気になる人へのアドバイスとして、他人をカボチャに例えたりする人もいるけど、それで心が救われるなら、別にそれでも良いと思う。

俺の場合は、道ですれ違う人たちを、

全てドラクエなどのRPGに出てくる村人や町人だと思うようにした。

そう思うようにしてからは、何だか道行く人たちが滑稽な存在に思えてきて、外出が楽しくなってきたのだ。

この方法は性格がクソみたいになるかもしれんw

「あの通行人たちは、同じセリフしか言えない憐れな存在なのだ。可哀想に。」と自分勝手に思うことにした。

通行人たちとすれ違う度に、それが可笑しくて可笑しくてw (クソな性格ですみません)


この方法は気休め程度だが、少しは気楽な気分で過ごせた。

現実世界は己の内部表現に過ぎないのだと知ったし、適当に「自分色」に世界を塗り替えてしまえば良いのだと悟った。


自分の頭の中で面白いことばかりを考えていたら、

現実世界に転がる面白いことを発見しまくるようになる。

結果、現実世界は面白いと認識するようになる。

また、逆もしかりだ。


車椅子常用の身体障害者である以上、他人からの「まなざし」は避けては通れない。

これは最早「宿命」とも言えるものだが、上手く自分なりに緩和したり、薄めたりするしかない。


「他人の視線」や「自意識過剰」に悩んでいる人は、どうか自分なりに、この現実世界を「自分色」に塗り替えてみて欲しい。





おしまい。

書籍「多動力」を読了した。

どうも。

個人的に印象に残った所をメモしておこう。


ホリエモンが著書「多動力」の中で、

1つのものにとことんハマり、その分野で80点を獲得することが出来たら次の分野に行くと書いてあった。

これは、

100点取ることを目指す完璧主義者には我慢出来ないだろうけど、しかし別にその分野でプロを目指さないのなら、それは良い方法なのかもしれん。

例えば、Aという分野の知識や技術と、Bという分野の知識や技術を組み合わせたり繋げたりして、新たな発想を思いつくかもしれない。

(例えば、前歴が教師の人が医師になり、教育学の考え方と医学の考え方をフュージョンさせてみたなど)



80点取れるぐらいの知識や技術をいくつも持ち、

今行っている仕事に活用出来ないか考えてみる。

遊びに応用することが出来ないか考えてみる。


各分野を横断的に学んでおくメリットはここだと思う。

なるほど、これは一理ある。

その分野で80点取れるぐらいなら、ある程度知識や技術もあるし、その道の専門家やプロの人ともある程度は会話出来る。(専門家と仲良くなれるかもしれん)


確かに何かをとことん極めた者は有名人になりやすい。

現代社会ではある意味、そういう人たちがこの世界を形作っていると言っても過言ではないけど、

なかなか1つの分野で100点を目指すのはやっぱりしんどい。



才能やそこにかける長い時間、そしてたゆまぬ努力と根気が必要だもんな。



80点取れる分野を何個も持っていると、それだけで個性や特色が出てくるし、それはそれで唯一無二の存在になれる可能性も上がってくる。

時代やマスコミも、変人を求めているしな。

(そういえば、医師免許持ってる芸人さんとかいるね)


昔は「器用貧乏」と揶揄されていた者が、今はクローズアップされる時代かもしれん。




そういえばこの「多動力」という書籍は、

インタビューされたことをプロのライターが上手くまとめて作った本と言っていたが、これは書かずに読者には黙っていた方が良かったかもなw
(反感を買う人もいる)

この書籍を購入している多数の人間たちもどうかと思うがw(自分も含めて)


(追伸)

ホリエモンに憧れて全てを真似しようとすると、現実世界で「ヤケド」する恐れがあります。

真似するかどうかは各個人の判断に委ねますが、そこはご注意下さいw



おしまい。

誰かにとっての習慣や日常生活の一部になることを目指す

どうも。


俺はYouTubeでゲーム実況をよく閲覧するのだが、

中でも特に好きなジャンルは、歴史シミュレーション系だ。

信長の野望大志をアップしている「ハヤトの野望」channelは個人的に好きだ。

自分から戦を仕掛けておいて、負けそうになったら、

「義により土下座致す!」と言いながら、全力で講和を結んでくれるよう敵にお願いするのはいつも笑えるw

(これからも更新を楽しみにしています)



ブログでもYouTubeでもそうだが、

個人的にお気に入りのメディアを更新されているかどうかを極力毎日確認するようにしているが、

更新されていない日は残念な気持ちになるというか、なんか物足りないなという気持ちになる。

それほどそのメディアが俺の日常生活に溶け込んでおり、習慣化されているのだろう。

ここで感じるのがやはり、自分の持っているブログやYouTube等のメディアが、

誰かにとっての習慣や日常生活の一部になることが出来たら、それはもう勝ったも同然だと思うし、

毎日の更新を楽しみにしている人がこの世に存在するというだけで、なんだかとても嬉しくなる。

「俺を必要としている人がいる!」


そう思えるだけで、毎日の日常生活がキラキラしてくる。(やる気が上がる)





ファンの立場になって考えてみると、


自分が持っているメディアは、やはり極力毎日更新すべきだなと痛感した。

(ファンにとっては、毎日更新されていると嬉しくなる)


多忙な日常生活を送る現代人にとっては、

毎日の更新はなかなか厳しいものがある。


だからこそこれを行うだけで、数ある個人メディアの中で頭1つ抜きん出るようになる。


(人気のあるメディアは、更新頻度が高い)




「あの人のブログは毎日更新されている!」と読み手側に認識され、それが特色の1つになるのだ。



目指すべきは、良質な記事を毎日更新し、読み手側にとっての退屈凌ぎになることだ。



「このブログは良質な記事が毎日更新されている!今日も更新されている!嬉しい!」と読み手側に思ってもらえて、


ブログチェックが読者の習慣や日常生活の一部になることだけど、なかなかそれが難しいのも痛感している。

(そもそも毎日更新が出来ないクソ人間w)




毎日更新すれば良いからといって、

適当に中身のない「あー」とか「うー」とか「腹減ったー」なんかのゴミ記事をアップしていてもダメだしな。(ガチのファンならそれでもいいのかなw)






おしまい。