どうも。
一時期、車椅子常用である自分の姿が嫌で、
外出したくないと思ったことがあった。
車椅子常用のまま外出すると、
どうしても普通の人間よりかは目立ってしまうし、
他人の視線がこちらに注がれていることも分かるのだ。
「人はそんなに他人のことを気にしていない」と友人は言ってくれたが、
いわゆる「自意識過剰」というやつかもしれない。
それが顕著だったのは、19歳~23歳頃までのちょうど大学生だった頃である。
教員免許を取得するために大学に通っていたので、
この目的意識が無ければ、多分厳しかったと思う。
いや、己の「自意識過剰」を消すために、そういう目的をわざとたくさん自らに課していた。
今振り返ってみれば、よく毎日通学出来たなと思う。
車椅子を漕いでいる自分の姿が街中の鏡に映る。
なぜこんな姿をしているのだと、一人悶絶する。
健常者と比較しても仕方ない。
それは頭では分かっていたが、でも毎日普通に比較していた。
あの頃の俺は、ネガティブな感情に支配されていた。
ネガティブな感情を払拭するために、よく近所の公園で友人と一緒にランニングをした。
友人も気を遣ってランニングに誘ってくれたのだろうか。
今ではそれが懐かしい。
多少は気が紛れたし、体力作りにもなったので、感謝している。
あれから幾分か年齢を重ねた。
そのせいか、今では何も気にせず普通に外出している。
若い頃に比べて、感覚が鈍感になったのだろうか。
野太くなったとも言えるし、今では正直、他人の視線なんてどうでもいいなと思えている。
不思議だ。
よく他人の視線が気になる人へのアドバイスとして、他人をカボチャに例えたりする人もいるけど、それで心が救われるなら、別にそれでも良いと思う。
俺の場合は、道ですれ違う人たちを、
全てドラクエなどのRPGに出てくる村人や町人だと思うようにした。
そう思うようにしてからは、何だか道行く人たちが滑稽な存在に思えてきて、外出が楽しくなってきたのだ。
この方法は性格がクソみたいになるかもしれんw
「あの通行人たちは、同じセリフしか言えない憐れな存在なのだ。可哀想に。」と自分勝手に思うことにした。
通行人たちとすれ違う度に、それが可笑しくて可笑しくてw (クソな性格ですみません)
この方法は気休め程度だが、少しは気楽な気分で過ごせた。
現実世界は己の内部表現に過ぎないのだと知ったし、適当に「自分色」に世界を塗り替えてしまえば良いのだと悟った。
自分の頭の中で面白いことばかりを考えていたら、
現実世界に転がる面白いことを発見しまくるようになる。
結果、現実世界は面白いと認識するようになる。
また、逆もしかりだ。
車椅子常用の身体障害者である以上、他人からの「まなざし」は避けては通れない。
これは最早「宿命」とも言えるものだが、上手く自分なりに緩和したり、薄めたりするしかない。
「他人の視線」や「自意識過剰」に悩んでいる人は、どうか自分なりに、この現実世界を「自分色」に塗り替えてみて欲しい。
おしまい。