いぐちゆうとの雑記ブログ

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読書のデメリットとその対策案 その1

どうも。   

読書のデメリットとその対策案を考えてみた。

参考にして欲しい。




☆目が疲れる、目が悪くなる  

→長時間同じ姿勢で読むことは厳禁。

適度に休憩を挟み、マッサージやまぶたを温める等して、眼精疲労になりにくい状態をつくれ。

ありきたりだけど、明るい場所で読んだ方が良い。マジで。


☆首や肩が凝る

→読んでいる最中にも適度に首や肩を回したり、ツボを押してマッサージする。長時間同じ姿勢にしないのが肝要。
適度に休憩を挟め。


☆運動不足になる
→知らんがなと言いたい所だが、
適度にストレッチを行い、身体を動かせ。1つの物事に集中して取り組むのも大事だが、適度に運動はした方が良い。
我々は動物だから。動かないと鬱になる。マジで。
『健全な精神は健全な肉体に宿る。』
マジで。

運動する時間、読書する時間と、

自分なりに区切った方が良いかも。


☆本を読まない奴に暗いと思われる
→どう思われようが放っておけ。
知見を広げたり、感性を磨いたりしている時間なので、読書中は物凄く有意義な時間を過ごしているのだ。
それが分からん奴とは会話も成立しないだろうな。


☆1冊読むにも大量の時間を消費する
→読む前になぜこの本を読むのかを明確化し、得たい情報を3点ほど炙り出しておく。それに関連しないものは飛ばして読まない。もしくはもう知ってる箇所は飛ばす。読む前に目次を見て、興味のある箇所だけをピックアップして読む。
結構これだけでもショートカットになるが、このやり方はビジネス本や自己啓発本に有効だと思う。だけど最初から最後まで連続して読まないといけないような小説なんかには不向きだ。

☆お金がかかる 

→図書館があるじゃないか。

それか知人や友人に借りる。(借りパクはダメ)

もしくはメルカリ、ヤフオクラクマ、モバオク、古書店ブックオフ等で安く購入するとか。

図書館なら無料で読めるが、本に書き込みや線を引けないのがちょっと難点だ。

それに他の人が借りていたら読めないし、そもそも図書館自体にその本が置いていない場合もある。むむむ。
資本主義社会で財力のない者は無力だ。




☆人に会う時間がなくなる 
→読むという行為は、著者との対話とも捉えることが出来る。

1人の人とじっくり向き合っている時間なのだ。

1冊読めば1人に会って話を聞いているみたいな感じだ。

300冊読めば300人に会ったことになる。

物理的な理由や経済的な理由で会うことが叶わない人から話を聞いているのだから、そりゃ読めば読むほど知見は広がり賢くなるだろって話。

また、本には著者の経験や知識、思考が詰まっている。

それを1500円〜3000円程度で購入して読むならば、飲み会に行って話を聞くのと何ら変わらん。

要は捉え方次第だ。



〈まとめ〉

読書のデメリットを考えてみたが、

身体的な問題に関連することが多いという印象だ。

だがそんなのは、

運動したり休憩したりすれば良いだけの話だ。


また、己の肉体を移動せずに人の話を聞くことが出来るのが読書の強みだ。
(文字情報を媒体にするので、時空を超える)

また、安価で著者の人生そのものを購入することが出来ているとも言えるし、

著者の頭の中身を覗くことが出来るので、やっぱり読書は面白い。


良本か駄本かは、

読む人によって変動する。

野球に関する知識を求めて購入したのに、

その本が料理のレシピしか書いてなかったら、そりゃ怒りだして、

『こんな本は糞だ!駄本だ、駄本!』と低評価するだろう。(いやこの場合はそもそも購入した奴が確認を怠ったのが悪い)

自分の知識レベルや理解力が足りず、

『全然読んでも分からんかったからこの本は糞本だ。』という場合もある。(本のせいにするな!その場合は、自分の知識レベルをアップさせてから後日読んでみると理解出来るかもしれん)



また、自分の知識レベルが高すぎて、

『こんな内容全部知ってるよ!糞本だな!』という場合もある。
(その道の達人が入門書を読んで何の参考にもならなかった場合とか)

 
本の価値って読む人によってコロコロ変動していて、絶対的ではなく相対的なのである。


当たり外れももちろんあるにはあるが、

読書することは、

人生における時短ツールである。


読むのに結構な時間を消費するので、一見遠回りに見えてしまうが、我流で突き進むよりかは遥かに効率の良い方法を提示してくれる場合が多い。

その道のプロや何かしらの成果を出した奴が書いた良本に巡り会うことが出来るなら、

実は最短距離を走っているので効率が良い。



読書ってコスパの良い、

最強のショートカットツールだよな。

以上である。

その2に続く。


(追伸)
デメリットを語るつもりが、ベラベラとメリットを語ってるやんけ(笑)



おしまい。


モルデックスの耳栓とシリコン耳栓の比較 遮音性能NRR22の シリコン耳栓はなかなか重宝する

どうも。


↑現在愛用しているシリコン耳栓



現在住んでいる家に引っ越してきて3年半。

最近コロナ禍のせいか、隣人の在宅時間が増えた。

それに伴い、早朝や深夜のテレビの騒音に悩まされることになったのである。

静かな空間の中、

コーヒーを飲みながら読書に耽りたい俺にとっては、まさに『発狂』ものであった。


毎日の楽しみを奪われ、このままでは死んでしまう。

そう思った俺は、

まずは普通の耳栓をメルカリで購入してみた。


モルデックスの耳栓である。

NRR33と書かれてあるが、これは遮音性能を示す数値である。 

つまりこの数値が大きければ大きいほど、遮音性能が高く、優秀な耳栓ということになる。

メルカリで10ペアのセットを440円で購入したが、

NRR33=33db(デシベル)も下げることが出来る。

遮音性能という観点ではなかなか優秀な耳栓だったのだが、

個人的に長時間耳に装着しているとゴワゴワしてくる。

何か他に良い耳栓は無いものかとネットで調べていた所、『シリコン耳栓』なるものを発見した。

この耳栓は白いシリコン状なのだが、

手でコネコネすると、形を自由に変形させることが出来る。


つまり、ユーザーそれぞれの耳の穴の形に合わせ、その形状を変形させることが出来るのである。


普通の耳栓に比べてフィット感もあり、

長時間装着していてもゴワゴワしない。

NRR22なのでモルデックスに比べると遮音性能が落ちてしまうが、

しかしそれを差し引いたとしても、

個人的にはゴワゴワしないのが1番であると感じたため、早速メルカリで購入してみた。



↑シリコン耳栓。遮音性能を示す数値はNRR22。

騒音を22db(デシベル)も下げることが出来る。




↑左の透明なケースに入ってる方は未使用状態。右の2つのシリコン耳栓は、しばらく使用して変色した状態。

両者を比較すると色の違いが一目瞭然である。(汚いので早く捨てろと言われそうだ)


このシリコン耳栓は、装着する前に手でコネコネする。

からしばらく使用していると、

コネコネしている間に自分の手のゴミやホコリ等が付着し、段々とこのような無惨な姿になっていく。
 
変色してきたら水で洗浄して、ゴミを洗い流した方が衛生的に良い。

何度も水で洗浄して使用していると、

その内吸着力が落ちてくるのが難点か。

その時は新しいシリコン耳栓に交換する時である。


〈まとめ〉

☆モルデックスの耳栓


(メリット)

NRR33なので遮音性能はなかなか優秀。

DAISO商品よりかは高いが、しかしメルカリで購入すれば価格も手頃。


(デメリット)

普通のタイプの耳栓なので、使用しているとゴワゴワしてくる。

ゴワゴワ感が気になる人には向いていない。




☆シリコン耳栓


(メリット)

シリコンタイプなので、ユーザーそれぞれの耳の穴の形に形状を変形させることが出来る。

そのため普通の耳栓よりフィット感が増す。

それに長時間使用していてもゴワゴワ感はない。


(デメリット)

手で捏ねて使用するので、

捏ねている間にゴミやホコリ等が付着し、段々と変色してくる。

水で洗浄すればまた使用出来るが、

何度も繰り返していると、その内吸着力が落ちてくるのが難点。








おしまい。

2週間連続更新達成!ようやく『克己』を果たした。

どうも。

奇跡だ。

今日でブログの連続更新が2週間となったのである。

2017年から断続的にこのブログを書いているが、今までこんなにも連続更新を成し遂げたことは無かった。

継続させることは昔からあんまり得意ではなかったのだが、

『やれば出来るやん!』と調子に乗り始めている。

自分のことを『超ポンコツ』だと自覚していたが、

案外そうではないのかもしれない。

この文章を書いている今まさにこの瞬間、

自分自身という最大の強敵に打ち克ったのだ。

今後の称号は、

『超ポンコツ』ではない。

見事に『ポンコツ』に格上げされた。

自信が湧いてくる。


今後ともこの糞ブログを宜しくお願い致します。

おしまい。

テレビを見る理由を考えてみよう

どうも。

隣人は高齢者で、

ほとんどの時間をテレビを見て過ごしているようだ。



娘夫婦は近くに住んでいて毎日のように自宅に来ているみたいだが、

毎朝仏壇の鈴(りん)を打つ音が聞こえてくるので、きっと奥さんに先立たれたのだろう。


そのせいか、

寂しいからとりあえずつけているだけなのかもしれない。


別にテレビを見て過ごすこと自体を否定しているわけではない。


『この番組が好きだから見てます!』という自分なりの目的があって見る分には構わない。

だけど見ている本人が全然面白くもないと感じていて、惰性でダラダラ見ているならそれはどうなんだろうか。

俺は個人的に、貴重な時間がもったいないなと感じてしまう。

まぁそれぞれの人生だし、俺がどうこう言える立場でもないが。

どんな風に過ごそうが、

どんな風に時間を消費しても別に構わないのだが、

俺は何の目的もなしに惰性でダラダラ見ることはしない。

見る前に番組欄やネットで情報をチェックし、見たいなと思うものだけを見るようにしている。

事前の情報チェックもせず、

偶々良い番組に出会える時もあるかもしれないが、

現状の地上波におけるテレビ番組欄を見る限りでは、有益な時間を過ごせることは少なそうだ。 

似たような出演者で埋め尽くされ、

あんまり面白くもなく、何のためにもならない番組が日々量産されている。

毎日お疲れ様と思うだけだ。


それにテレビを大音量で見られると、

これは騒音問題に発展する。


タバコと一緒で、人様に迷惑をかけてしまうのだ。

『うるさい!イヤホンつけろ!』と言いたいところだが、


病院の大部屋で入院でもしてない限り、

自宅でテレビを見てる人に向かって、なかなかそんなことは言えないよなと思う。

高齢者なので耳が遠いだけなのかもしれない。

高齢者で他に何の趣味もなく、

暇つぶしのために見ているかもしれない。

そういえば俺の祖母も、

認知症で施設に入所する前は一人暮らしだったのだが、

1日のほとんどをテレビを見て過ごしていた。

『テレビ1日中見てるの?』と聞くと、


『うん。テレビ見たり新聞読んだりしてる。何かしたいのだけど、もう高齢で体力も気力もあんまりない。でも何もしないよりかはマシだと思って。』と返事してきた。

ちょっと驚いた。

祖母は祖母で、悶々とした日々を過ごしていたのだろうか。

何かしたいと思ってるけど、

体力や気力の減少が邪魔をする。

体力や気力をあんまり必要としない物事の創出と提供が必要だと感じた。




 
年金暮らしの高齢者は、

若い頃に比べて体力や気力が減っている人が多いだろうから、

普通の日常生活を営むだけで疲れてしまい、

なんにもする気が起きないのかもしれない。

またはテレビ以外の趣味がないだとか、

反対にテレビが大好きで、CSなんかに加入していて見たいテレビ番組が山程あるだとか。

または経済的に苦しくて、テレビ以外の娯楽がないだとか。

ネットを見ない人にとっては、

情報収集のために見るという場合も有り得るか。





テレビをなぜ見るのか。

それは人によって事情や理由は様々だろう。

しかし夜中や早朝に、大音量でテレビを見ることは勘弁して欲しい。

良識がないと言わざるを得ない。


テレビの騒音をシリコン耳栓で22デシベル下げ、最近はマシだと感じるが、

それにしても全く、

『やれやれ。』なのであった。



〈テレビを見る理由 まとめ〉

☆テレビが好きで見たい番組があるから。

☆テレビ以外の娯楽を知らないから。

☆テレビ以外の趣味が無いから。

☆経済的に苦しいので、テレビ以外に費用をかけることが出来ないから。

☆寂しさを埋めるため。

☆暇つぶしのため。

☆ネットを見ない人にとっては情報収集のため。


(追伸)

ゴチャゴチャ書いたけど、

もしかして単に『テレビ依存』なだけの場合もあるかも。


おしまい。

結婚をためらうたった1つの理由

どうも。

俺の周囲は既婚者が増えてきた。

それもそのはずだ。

30代ともなると『適齢期』と呼ばれることもあってか、

一般的には、結婚したり子どもが生まれたりするのはごく普通のことだ。

幼少期から知っている人たちが変化していく様を見ると、

『嗚呼、皆も変化していて、俺も年を重ねたのだな。』としみじみする時もある。

まあ、完全に結婚願望を捨てたわけではないが、

今のところその予定もない。



現在は一人暮らしだからたまに寂しさを感じる時もあるけど、

基本的には一人でも全然平気なタイプだ。

それに読書や動画が、この孤独を癒やしてくれる。

コーヒーを飲みながら読書に耽り、

あれこれと思考を巡らす。

この貴重な時間を失いたくはない。

結婚することにより、

一人でゆっくり読書する時間は、

きっと減少するだろう。

そんなことは結婚する前から目に見えている。(しかし誰かと共存することにより、その分幸せな時間も過ごせそうだが)


俺は両親が中学生の頃に離婚しているのだが、

基本的に結婚生活やら夫婦関係に対してあまり良いイメージがない。

『親のせいにするな!』とも思えるが、

これって結構重要な分岐点だと感じている。


幼い頃から仲良くしている両親を見て育ったなら、

『俺もいつかは結婚したいなー。』なんていう風に、憧れや願望を抱きやすいのではないだろうか。

逆もしかりで、

幼少期より不仲な両親の背中を見せられていたら、

『結婚生活』は面倒でしんどいものと認識し、

『絶対結婚なんてしたくねぇ!』とネガティブなものに映るのではないだろうか。


幼少期の家庭環境や生育歴が、

多少なりとも結婚観に影響を与えそうだ。




まあ、人によっては、

幼少期の家庭環境が良くなかったからこそ、 

今度は自分が大人になった時に、

『円満で幸せな家庭を築いてみせる!』と決意する人も中にはいるだろうが。



それでも結婚に対しては、

『いいなー。』と思う時もあれば、

『やっぱり一人で自由に過ごしたいよなー。』と思う時もある。

しかもこれが日によって変化し、結婚に対する考えや想いは、ブレブレのブレブレだ。

何をするにしても一長一短ありそうで、

結婚をメリットやデメリットで考えるタイプの人間、つまり『頭』を使ってあれこれ考えてしまうタイプの人間には、そもそも結婚そのものが向いてなさそうだ。

『判断力の乏しい若い内に結婚しなきゃ、年を重ねてからはもう出来なくなる。』と樹木希林がそういう感じのことを言ってたことがあるけど、

それが今では結構身に沁みていて、

『あー確かにそうかも!』と感じている。

既婚の知人や友達も結構幸せそうにしているので、多分結婚生活も楽しいのだろうな。



そりゃ全てを手に入れたいとは思うが、

何かを得て何かを捨てなきゃいけないとしたら、

今後も『一人で過ごす孤独で楽しい自由な時間』を優先するだろう。



(追伸)

こんなことを書いてる奴がすぐに結婚したなら、その時は殴り飛ばして下さい。

そういうパターンって結構多いですから(笑)


おしまい。

32歳で車椅子ユーザーだけど、まだ生きてる7つの理由

どうも。

俺は車椅子ユーザーだ。

結構このブログで何度も書いてるから、知ってる人は知ってるだろう。

でも普段家の中では乗っておらず、

車椅子に乗るのは外出時だけだ。

車椅子ユーザーとして人間生活を営むことは、はっきり言って不便である。

不幸とは思ったことはないが、

不便や制限は多い。



段差や階段といった物理的な障壁が行く手を阻むことは多いし、遊園地に行けば乗れないアトラクションも結構あって不服だ。(ガキみたいな理由)

普通に生きてるだけでも何かと制限は多い。

というよりも、『普通』に生きることが叶わない。

制約下をどれだけ楽しむことが出来るのかというスタンスで生きてきたけど、

どこでどう設定を間違えたのか、

人生ゲームにおける難易度は、

間違いなくノーマル以上だろう。
(障害というものを武器にして生きた場合、難易度が下がるという考え方もある)



普段の生活の中で制限されることが多いが、

しかし30代ともなるとそれが段々と麻痺してきて、

『もうどうでもええわ。なるようになるやろ。好きにしろや。』みたいな感覚に陥る時もある。

制約下の自由をどれだけ楽しむことが出来るか。

制約を崩す方法を模索し、いかに自由の枠を広げることが出来るか。

幼少期から常にそれを意識して生きてきた。

苦しみや辛さを感じないと言えば嘘になる。

いやむしろ、普通の一般人よりかは多いかもしれない。

それにもかかわらずまだ生きている。


それはなぜなのか。

『産んでくれた母親が生きている内は死なないようにしよう!』

『たくさんの人に支えられて生きいる。まだ生きておいて、何か社会に恩返しすべきではないか。』

もちろんそれもあるにはあるが、

ちょっと自分の中では、

強い動機や理由にはなり得ない。

明らかに健康体で生まれた方が良いに
決まっているのに、

なぜまだ生きているのだろうかとちょっと考えてみた。

多分以下の7つの理由があるからだ↓


☆〈理由その1〉
『この世界の変化を見届けたいから。』

毎日、技術革新や文化の変遷は、

物凄いスピード感を持ってそれが起きている。

一体この世界はこれからどんな風に変化していくのだろうか。

それを考えるだけでワクワクしてくるし、死ぬまでの間はその変化を見ていたい。



☆〈理由その2〉
『書籍をたくさん読みたいから。』

毎日意識的に読書の時間を確保して読んでいるが、やっぱり本を読むことは好きだ。

著者との対話を通して、

『あーでもないこーでもない。』と思考するのが好きだ。

また、心震わす時だってあるし、知見も広がる。

なんて読書は素晴らしいのだろうか。



☆〈理由その3〉
『動画をたくさん見たいから。』

主にゲーム実況を見ているのだが、

これもワクワクして飽きない。

同じゲームソフトを扱っていても、

プレイする人によって、選択や判断が異なる。

その差異を楽しめるし、

『なるほどその手があったか!』と唸ることも多い。



☆〈理由その4〉
『まだ全ての世界遺産を訪れていないから。』


『人生に飽きた』とほざきながら、まだ訪れたことのない場所も多い。

地球上の全ての場所を訪れることは、

きっと一回の人生では足りないだろう。

そんなことは百も承知だが、

未開の地を踏破していくことは、

心震わすものがある。




☆〈理由その5〉
『自分の能力値がどこまで上昇するか気になるから。』


生まれてから死ぬまでの間に、

一体自分の能力値をどこまで上昇させることが出来るだろうか。

そう考えると、人生がまるでドラクエのようなRPGに思えてきて、ちょっとだけ面白くなってくる。

毎日の生活の中でコツコツと経験値を獲得し、愚直に向上させていく。

暇つぶしとしてはなかなか面白いし、

まだ生きてみるかと思えてくる。


☆〈理由その6〉
『自分が死ぬまでの間、どれだけのお金を稼げるのか知りたいから。』


お金を稼ぐことは、社会に対する目に見える貢献度の指標であるので、

これも先程の能力値の向上と同様、


死ぬまでの間、己の限界が一体どこにあるのか、それを知りたいということだ。



☆〈理由その7〉
『全国全てのデリヘル店を制覇したいから。』


これは言わずもがなであるが、

全国津々浦々、全ての店のサービスを受けてみたい。


親や社会貢献よりも、自分の中で優先度が高いらしい。

これは1番アホな理由である。


あなたにも『生きる理由』はあるだろうか?


『全世界の虫を食べるまでは死なない!』とか、

『私の生きる理由はプラモデルをつくることが楽しいからです。』とか、

それは別に何でも良いと思う。


人間、そういうのが1つあるだけで、

結構幸せに生きることが出来てしまう。

お迎えがくるまでの間、束の間の現世を楽しもうぞ。

おしまい。

小便で1日70分。僕らはトイレでどれだけの時間を消費しているのだろうか?

どうも。

突然だが、超個人的な話をすると、

俺は1回の小便に、平均で約7分かかる。

これはトイレに行く度に時計で計測したから間違いない。

そして1日10回ほどトイレで小便をする。

なので、1日7分×10回=70分という計算になる。

つまり1日70分、トイレで過ごしているというわけだ。


デリヘルの70分コースが、

毎日トイレでの小便70分コースに置き換わっているのだ。(控えめに言ってクズの発想)


これほど恐ろしいことはない。

多大なる損失である。

生理現象だから仕方がないと言われればそれまでだが、

1日70分のイチャコラコースを喪失しているのだと考えれば人生やるせなすである。



これが大便ならば、1回で約20分ぐらいだったので、もっと時間を消費することになる。


『人生暇だ暇だ!』とぼやいていたくせに、

いざその暇な時間がトイレで埋められていると、これじゃない感が出てくる。


『あーーー!俺はなんて無駄な時間を過ごしているのだろうか!』と叫びたくなる。

トイレで時間が消費されているのが嫌なのだろう。

この時間を全て読書に充てたいと思ってしまう。

トイレに消費している時間を調べなきゃ良かったとも思えてくる。

人間は結構トイレで時間を消費している生き物なのだ。

しかもトイレだけではない。

歯を磨いたり、風呂に入ったりする時間もある。

また、睡眠も必要だ。

これらはいわゆる『必需時間』というやつだが、

自分の残された人生の時間からこれらの必需時間を引いた場合、

自分の好きなように使える『自由時間』は、

結構少ないということが分かる。

俺の場合は1回の小便に約7分使っているが、これはもちろん人によってバラバラだと思われる。

1度あなたも、

トイレに1日どれだけの時間を消費しているのか、

ざっと計算してみるのも面白いと思う。

そこから人生設計していくのもアリだ。


↑1日のトイレ時間を計測するのに最適


おしまい。