いぐちゆうとの雑記ブログ

いぐちゆうとの雑記ブログです。

アンインストールで時間的拘束からの解放を!

どうも。


何に時間を奪われているのかと考えた時、俺の場合、それはまさしくアプリゲームであると悟った。

目が覚めた瞬間から、アプリを起動してしまうということが習慣化されていたのだが、今振り返れば、恐ろしい話である。


別に起動しなくても良いのに、それが当然であると思い込んでおり、もはや自分自身の中で義務化されていた。

スッと手軽に始められ、気付けば生活の中に浸透して、有限的な時間を奪っていくのだから、アプリは本当に恐ろしい生き物である。
(そのようなアプリゲームを製作した人の勝ちとも言える)

俺が暇潰しのために始めたアプリゲームには、クラッシュオブキングス、どうぶつの森実況パワフルプロ野球、将棋ウォーズ、そして遊戯王デュエルリンクスがあった。

先ほど、これらの内の将棋ウォーズ以外のアプリゲームを、

「断捨離じゃ!断捨離じゃ!」と泣きながらアンインストールした。


暇潰しのためにインストールしたアプリゲーム。


その一助になったことは言うまでもないが、それなのにプレイ最中に、

「こいつに時間を奪われている!なんか腹立つ!」と怒りが込み上げてきたのだから不思議なものである。


今までこのアプリゲームで救われていたくせに、この突然の戦力外通告は、鬼か悪魔か。

冷酷非道にも、アンインストールを敢行したのであった。

その作業は大変心苦しく、まさに断腸の思いであった。

アプリゲームによる、「時間的拘束」という呪縛から解放された俺は、大いに暇な時間を作り出すことに成功した。

自らが作り出した習慣や時間的拘束を、1度捨てることによって、そこから自由な時間を捻出する。

大変有意義であると思うし、何か煮え切らない想いがある時は、皆さんも試してみても良いと思う。

人生は時に、足し算だけでなく、引き算してみてもいいかもしれない。


アプリをアンインストールしてみると、当然ながら、また暇な状態に戻ってしまったわけであるが、仕方ないので、こうしてブログを更新している次第である。



おしまい。

儚くて楽しい

どうも。

「繰り返してから人は死ぬ」

前回の記事ではそう書いた。

何も間違えてはいない。

歯が汚れてきたら歯を磨く。

綺麗になる。

また汚れてくるので、歯磨きする。

また綺麗になる。

また汚れてきたら、歯を磨く。

爪切りもそうだ。


爪が伸びてきたら、爪切りを行う。

またしばらくして伸びてくる。

また爪切りを行う。

睡眠もそうだ。

眠たくなったら眠る。

また起き始めて動き出す。

また睡魔に襲われ、眠くなる。

また眠ってしまう。


そしてまた起きて動き出す。

トイレだってそうだ。

冷蔵庫の中身を、胃袋に入れる。

トイレで大便や小便をする。

容量に空きが生じたので、また冷蔵庫の中身を胃袋に入れる。

それをまた大便や小便に変換して、トイレで捨てる。

その繰り返しだ。

冷蔵庫の中身を、胃袋を経由して、トイレに移動させているだけだ。

それだけに過ぎなかった。

別に人間、偉くも何ともない。

こうして見ると、人は繰り返しで成り立っていることが分かる。

そして、繰り返し繰り返し繰り返しまくった挙げ句に、最後は何と死んでしまう。

儚い。


物凄く儚い。

脆い。

物凄く脆い。

人間の人生なんて物凄く儚くて脆い。

だけど楽しいこともある。


その一時の甘い夢を見てから、繰り返しの中で死ぬ。

最高だな。

おしまい。

繰り返してから人は死ぬ

どうも。

自分の考えや想いを、言葉というツールを用いて、それを文章にする。

吐き出す。

外に吐き出す。

ぱっと思いついたことを吐き出す。

そこに修正を加える。

何度も加える。

考えながら吐き出す。

また修正を加える。

書いている最中に次から次へと考えが浮かぶ。

それをまた文章にして吐き出す。

修正を加える。

そして最後にアップする。

これらを繰り返していると、

頭と心の中が整理され、クリアになっていく。

気持ちが軽くなる。

下手すると空っぽになる。

しばらく経つと、ある考えや想いがまた浮かんでくる。

しばらく書かないでいると、少しずつだが頭や心の中で溜まっていく。

それをまた吐き出す。

外へと吐き出す。

また修正を加える。

ここにアップする。

その繰り返しだ。


繰り返し繰り返し繰り返しまくってから、人は死ぬ。

最後は死ぬ。

それで良い。

考えたという証。

書いたという証。

生きたという証。

それをここに残しておく。

きっとそれで良いのだ。

おしまい。

家族

どうも。

去年の大晦日は、家族と一緒に年越しそばを食いながら、ガキ使を見て過ごした。

(途中からは、ジャニーズのカウコン)

元旦には、家族で鍋とたこ焼きパーティーを行い、楽しく過ごした。

翌日も翌々日も、ピザとケンタッキーのダブルデリバリーを頼みつつも、おせち、雑煮、お汁粉を食らいながら、家族と一緒に過ごした。

正月は、家族と楽しい時間を過ごすことが出来て大変有意義ではあったが、こうして一緒に過ごせる時間も、いつかは終焉を迎えるのだなと思うと、なんだか少しだけ泣けてきた。

正月早々からそんなネガティブなことを考えるなと言われそうだが、こんな脳みそなんだから仕方ない。

一緒に過ごせる時間が有限であるからこそ、大切にしたいなと改めて思った。

また、弟を見ていて、大人になったものだと、密かに1人で感動していた。

聞けば、どうやら22歳になっているみたいだった。

大学4回生と三十路。

うむ、やはり7歳差は大きい。

弟は普段あまり騒がず、落ち着いたタイプであるため、他人からは淡白に見られがちだが、しかしそこは何と言っても22歳。

強調せずとも、自然と若さは滲み出ていた。

その若さが羨ましく、眩しすぎるぜと思った。

今後も家族に幸あらんことを祈り、これにて今日のブログを締めたい。

おしまい。










2018年 最初の投稿

明けましておめでとうございます!

本年も宜しくお願いしますm(__)m






遂に新年が明けてしまった。

時が経つのは、早いものである。


この文章は、「雪の宿」をバリボリ食べながら書いているのだが、2000年になってから18年目、平成になってからは30年目らしい。

にわかには信じがたい話である。

さらに今朝、星野仙一氏の訃報を、ヤフーニュースで知った。

これもにわかには信じがたいことであったが、しかし確実に、時は刻一刻と進んでいるのだと、改めて認識させられた。

「平成」という時代が、次の新たな時代の幕開けに向けて、静かに前支度をしているかのようだ。



最近は強く周囲の人々の老化を感じるが、

しかしかくいう俺も、今年の10月で三十路になるため、お世辞にも若いとは言えない。
(祖母からは若いと言われたけど)


このブログの更新を機に、今までの自分の人生を振り返っているのだが、長かったような、短かったような、そんなどちらとも言えない感覚だ。

紆余曲折あったことは確かだし、よくここまで生きてこられたなという万感の思いがあるが、個人的には、ようやく第1章が終わりを告げたなという感じだ。


もう少しだけ生きてみようと思う。

おしまい。

身体障害者として生きている

どうも。

この文章をここに書き留めておく理由は、

生きているかは定かではないが、路頭に迷った未来の俺が、いつでも読み返すことの出来るようにするためである。





俺は小児がん(神経芽細胞腫)で生まれ、5歳の時に車椅子に乗った。

社会の中で、「身体障害者」という括りを充てられ、「身体障害者手帳」を所持している。

その手帳には、「両下肢機能全廃(等級1級)」と書かれている。

この等級は、数が小さいほど、その障害の度合いも重いとされる。


俺の等級は1級だ。

つまり、1番重度とされており、日々生きている上においても、世間からのそのような認識を負うことが多い。

確かに、支えなしでは立つこともままならないため、重度と言えるかもしれない。

だがこの状態が、いわゆる俺にとっての「普通」であるため、あまり自分では、重度の「身体障害者」であるとは思っていない。

生得的であるからそう思えるのであろう。

これが人生の途中で、健常者から身体障害者になっていたならば、また感じ方は違っていたはずだ。

健康であった時の自分と比較出来るが故に、そっちの方が辛いだろうなと思う。

最初から身体障害者として生まれているからこそ、これが当たり前の状態であると思えるのであろう。

まあ、自己認識上はそうであっても、やはりそこは身体障害者

出来ないことも多い。

まず、階段や段差などの物理的障壁に滅法弱い。

特に階段。

ヤバい。

こいつに何度泣かされてきたことか。

悔しさや呪う気持ちを通り越して、もはや笑いが出るほどである。

しかし、あの階段の形状は好きだ。


整然と存在する時、階段は画になる。



また、形状だけでなく、実際に階段を昇り降りすることが好きだという人もいるだろう。


まあ、一般的にその動作は、苦しさを伴うものだ。


しかし俺は、自分の足を用いて、階段を昇り降りしたことがない。


苦しさを伴いながら、階段を昇り降りすることが出来る。

そこに、羨ましさを感じてしまう。

これは紛れもなく、経験の消失、機会の消失なのだ。

死ぬまでに、1度は味わってみたい。

そう思いながら生きているが、叶わずに死んでいきそうだ。

このことから分かったことがある。

誰かにとっての苦しいことは、誰かにとっては憧れなのだと。

また、俺が苦しいと思いながらしていることも、誰かにとっては憧れなのだと。

この観点は、忘れずにいたい。

おしまい。

ZARDが好き過ぎてヤバい どれくらいヤバいかというとマジヤバい

どうも。

最近、ZARDの曲ばかりヘビロテしている。

一切流行りの歌を聴くこともせず、ZARDばかりだ。

特に、「Season」・「あなたを好きだけど」・「二人の夏」の3曲はヤバい。

ちょっとヤバいくらい良すぎて、恐ろしく時間を奪われている。

今日もこの3曲をローテーションして、3時間も費やしてしまった。

「本当に賢いものは計画から始めない。まず何に時間を使っているかを考える。」

かのドラッカー先生はそう仰った。



間違いない。

俺にとって今は間違いなく、ZARDを愛聴することだ。


彼女の優しくも芯の強さを感じさせる歌声、彼女が紡いだ詞、そして美しくも切ないメロディーライン。

恐ろしい。

恐ろしいくらい3拍子揃っており、何回聴いても飽きないのである。

爽やかな清涼剤の中に潜む、この淡さと切なさ。

それが80年代や90年代の曲の特徴なのかもしれない。(ZARDは91年から)




リスナーの誰しもが、大切な思い出をそれぞれ持っていると思う。


不思議なことに、彼女の歌声を聴いていると、それを静かに思い出す。

瞬時に、その場所まで辿り着いてしまう。

楽しい思い出、哀しい思い出。

聴く度に、いつでも人生を回顧するきっかけを与えてくれる。


それが俺にとってのZARDだ。

ご逝去を悼み、謹んでお悔やみを申し上げると共に、感謝感謝である。


おしまい。