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孔明の天下三分の計は、本当にベストな戦略だったのか 最終回(その6)

前回の続き。

西暦215年、荊州の領有を巡り、孫権との関係が悪化した。

荊州南部の東半分の返還を余儀なくされた。

西暦219年、樊城の戦いで関羽が戦死し、荊州の支配権は、魏と呉に分割されてしまう。

西暦222年、劉備は、夷陵の戦いで敗北し、翌年の西暦223年、白帝城にて死亡した。

孔明の天下三分の計の構想は、遂に破綻をきたしたのであった。

どの辺りで構想の破綻が起きてしまったのだろうかと見れば、ホウ統が戦死した時点ではなかろうか。

ホウ統の死が、結果的に関羽の立場を苦しめ、荊州の失陥を招いたと言ってよい。

天下三分の計。


追い込まれた劉備が、生き残るための唯一の道であった天下三分の計。


劉備孫権曹操の力関係からすれば、この長期的な持久戦略を、弱小勢力の劉備が、選択せざるを得ないのは、当然と言えば当然であった。

動員兵力や生産力に直結する人口数が、魏が圧倒的であり、もう戦う前から既に詰んでいたという意見、呉との同盟関係の維持なくしては、蜀は成り立たないので、常に呉がキャスティングボードを握り続けており、呉の思惑や対応に、蜀側が振り回されやすいという点。

3年という年月を空費せず、劉備成都攻略がすぐに行われていれば良かったなという点。

天下三分の計の悪かった点や悔やまれる点はまだまだ列挙できるだろうが、劉備を三国鼎立の一方の雄にのしあげたのも、この天下三分の計なのである。

劉備の死後も、孔明は漢室再興に向けて、戦い続けていくが、1000年に1度の逸材と呼ばれた孔明でさえも、人の死を止めることは叶わなかった。

当然と言えば当然なのだが、ホウ統、法正、関羽張飛劉備・・・。

彼らが、まだもう少しだけ生きてくれていたなら、どれだけ良かっただろうか。

歴史にもしもの話はないが、しかしそう思わずにはいられないのである。

孔明の心情を偲びながら、これにて終わりとしたい。