孔明の天下三分の計は、果たしてベストな戦略だったのか。
今日は、これについて考えていきたい。
〈決戦と持久戦〉
まず、戦のやり方は、「決戦」と「持久戦」に大別される。
「決戦」とは、直ぐに勝敗の決着を狙う戦略のことであり、「持久戦」とはその逆で、すぐに戦うことを避け、出来るだけ時を稼ぎ、その間に力を養い、有利な決戦の機会の到来を待つ戦略のことである。
孔明の天下三分の計は、後者の「持久戦」に該当する。
〈天下三分の計〉
そして、当時の劉備は、西暦201年に汝南で曹操に敗れ、荊州の劉表のもとに、その身を寄せていた。
劉備の状況を見るに、大軍を動かすことが出来る曹操に対して、またすぐに戦いを挑むことは、それはあまりにも無謀で、ただの自殺行為であった。
もっと軍隊を増やして力を養い、曹操との差を詰めていくしかない。
よって、「持久戦」の戦略を採用するしか、もう活路が無かったとも言えるのである。
孔明の天下三分の計は、黄河流域を支配する強大な勢力であった曹操に対して、潰されない場所を選択し、そこを自分たちの根拠地として雌伏し、力を養いつつも、揚子江下流沿岸を支配する孫権と同盟を結び、三国鼎立の状態を維持しながら、徐々に自己の勢力を拡大するという戦略である。
劉備に示した当初は、荊州と益州を根拠地として要害を守り、西方と南方の異民族を手なずけ、孫権と同盟を結び、日頃から内政を充実させ、曹操の勢力に変事があれば、荊州の軍勢を中原に進攻させると同時に、益州からも、隴西方面に軍勢を進攻させ、東西から挟撃して、曹操軍を殲滅するというものであったが、実際は、情勢の推移に伴って、荊州をほとんど放棄し、蜀に実現していくことになる。
まあ、とにもかくにも、この戦略を実行に移すためには、劉備軍が力を養うための根拠地が必要であった。
これが無ければどうしようもない。
地図を見ていると、海に向かって開け、貿易を通じて力を養うことが出来る華南地域や東北地方も根拠地として考えられるが、どちらも異民族の支配下にあるため、それらを選択するのは、リスキーと言わざるを得ない。
なので、華北平原に南接する肥沃な「用武の国」荊州と、周囲を山々に囲まれている「天府の国」益州を、根拠地として選択したのは妥当と言える。
(これぐらいしかない)
俺が孔明の立場ならば、
「もうこんなに追い込まれた状況になってから、こっちに駆け込んでくるなよ。もっと早く来い。」と劉備に向かって文句の1つも言いたいところだが、何とかしてやろうと返事した孔明は、流石である。
何とかしてやろうと言うからには、孔明にはそれなりの勝算があったということだろうが、果たしてその勝算とは何だったのか。
次回に続く。