いぐちゆうとの雑記ブログ

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ひとりごと

おはようございますこんにちはこんばんは!

この冒頭の挨拶は、ローソンの外国人の店員さんが言っていたので、それを真似しただけです。

どの時間帯にも対応出来るから、個人的に素晴らしい挨拶だと思うw



〈本文〉


ひとり暮らしをしていて、とてもゆったりとした時を過ごせている。

北区に帰ってきたわけであるが、やはり堺区に比べると、静かで心地良い。

不動産屋のスタッフさんがこの前言っていたけど、やはり堺区は民度が低いそうだ。

まあ、あそこの土地柄もあるしな。(風俗街と在日が多く住む)

何か分かる気がした。

デリヘルはよく利用する俺だが、堺東(翁橋)も活気が無くなってきたなという印象だ。


昔は、南大阪最大級の風俗街として栄えていた時期もあったが、今はなんかその、生気を感じられない。

まあ、どうでもいい話だがw








最近の俺は、精神的に安定している。

幸福だと感じるし、暇だなとも感じる。

次は何をして時を過ごそうか。

ワクワク感がある。


今日はただのひとりごとであった。



(追伸)

俺は今、老後のじじいのような感覚で生きているw

そういう自覚があるw

おしまい。

また無添蔵に行ってきた

おはようございますこんにちはこんばんは!

昨日は実店舗で銀行口座を新たに開設した後、

今度はひとりきりで、また同じ店舗の無添蔵に行ってきた。

カウンター席についたのは14時だったので、店内のお客はほとんどおらず、かなり空いていた。


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レーンを見ると、寿司が何も回ってねぇー。

この光景は初めて見たので、とても新鮮だったw



ちょっと小腹が空いたので、サクっと寿司でも食うか。


そんな感じで、車椅子で気軽に入れるのは素晴らしい。

5,6皿食うだけのつもりが、ちょっと調子に乗って15皿も食ってしまった。

低価格のせいか、ついつい小銭を落としてしまうように出来ているのだ。

DAISOもそうだが、デフレの申し子たちのシステムの上手さと怖さを実感したw

今後もちょくちょく通うと思う。




(追伸)

「こはだ」が結構美味しかった。




おしまい。

友人と無添蔵に行ってきた

どうも。

2018年3月10日の土曜日に、友人と回転寿司の無添蔵に行ってきた。

そもそも、回転寿司に行ったのはいつ以来だろうか。


久々であることは確かだったが、多分1年以上は行ってなかったと思う。





レーンの上を回るお皿の上には、透明な蓋が備え付けられてある。

取るのに手間取ったが、衛生上、もの凄く良いアイデアだと思う。

席上の前にはタッチパネルがあり、それで注文した寿司が、自分の席まで瞬時に運ばれてくる。

テレビやユーチューブでこのことは事前に知ってはいたが、現に目の前にすると、感動ひとしおであった。


回転寿司屋も進化したものだと感心していたが、

しかし自分の席に瞬時に運ばれてくるなら、もう回転させる意味ねぇーだろと、ちょっとそんな風に思ってしまった。(お飾りの回転なのか)

まあ、寿司がレーン上で回転する様を見るだけで、こちらの気分がハイになることは確かだがw

価格もリーズナブルで、全体的にネタの味も良かった。

つぶ貝、うに、生えび。

特にこのあたりが美味しかったので、何にせよ行って良かったと思う。

友人とカウンターで食べたが、ちょっと小腹が空いた時なんかに、車椅子でも気軽に立ち寄ることが出来るなと思った。


居酒屋に行く前に、ちょっと回転寿司屋に立ち寄って、少し腹の中に寿司を入れておく人や仕事の合間に行く人もいると聞いたが、それも納得の話で頷ける。

車椅子で牛丼屋にひとりで寄ることもあるが、牛丼屋の席は狭く、車椅子から席に移らなくてはならないため、少し面倒だ。

その点、回転寿司屋の方が、車椅子のままカウンター席で食事出来るので、1枚上手に思えた。

牛丼屋は、最初から車椅子ユーザーが来ることを想定していないのではなかろうか。

車椅子ユーザーでも牛丼大好きな人間は結構いると思うので、もっと店内を広くして、改善してもらいたいものだ。

回転寿司屋に行った話なのに、牛丼屋への意見になってしまったw







(追伸)

「メニューに担々麺があったけど、回転寿司に来てなぜに担々麺と思ってしまったw」








おしまい。

前へと進むしかない

どうも。

ずっと仲良くしていたかったが、とても残念だ。

これだけは仕方ない。

ちょっとしつこくしてしまった。

自分でも分かっている。

執着し過ぎた。

自分でも分かっている。


相手にとっての重荷になってしまった。

反省している。

本当に申し訳ない。


ここに、ひとつの関係性が終わりを迎えた。

でも、そんなに案じなくてもいい。

そう思っている。


出ていった分だけまた入ってくるように、

ひとつの関係性が終われば、また別の関係性が始まり、新たな縁が結ばれるだろうから。

そう信じて、前へと進むしかない。

過去を振り返ってみたところで、もうどうしようも出来ないからな。

過去は過去で、

自分の後ろを流れていく川のようなイメージだ。



明るい未来を信じて、またゆっくりと歩き出す。

相手の幸福を願いながら。


おしまい。

人生において生き方はたくさんあるけど、あなたはどんな生き方を選択しますか?

どうも。

安心感を得るために荷物を多くする人。


自由さを得るために荷物を減らす人。

どちらの生き方も良いと思うし、それぞれが自分に合っている方を選べばいいと思う。


人との繋がりを拡大しまくり、わちゃわちゃがやがやと、毎日楽しく過ごすのもアリだと思うし、逆に、人との繋がりを意識的に最小限に抑え、心から本当に大事にしたいと思える人と交流を深め、その関係性を濃密なものとするのもアリだと思う。

人生において、生き方に正解はない。


どんな生き方を選択してもいいし、選択しなくてもいい。

それこそ自由だ。


まあ、最終的には、自分と似たような人たちが集まってくると思うけどw


自分が興味のあることで繋がる人間関係は、大変心地良くて楽しい。

その関係性を人生の核にしつつも、たまには意識的に、自分の全く知らない分野に飛び込んでいき、その人たちの話を聞くのも面白いかもな。

何か新しい刺激を受けるかもしれない。

また、

「やっぱり自分はこれが好きで向いているんだ!」と、興味のあるものへの再確認に繋がるかもしれない。


まずは色んな生き方を知ること。


そして、興味のないことをどんどん削ったり捨てたりして、本当に自分が興味のあることだけを浮き彫りにさせる。

何を選択し、何を捨てるのか。

喧騒から離れ、心静まる時を意識的に持ち、定期的に自分の心と向き合ってみる。

(例えば週末は森や山、キャンプなんかに行って、自然溢れる場所で、自分自身について考えてみるとか)


「お前は何が好きなんだ?」

「どんな生き方を望んでいる?」

自分の心の底から望む生き方、心の底から興味のあること。

これを鮮明にする。


鮮明にした後は、それを叶えるべく、行動に移すのみだ。




あなたが望む生き方を達成出来るように、俺は心から願っています。

おしまい。

適当にあるがまま、自分らしく生きれば良い

どうも。

自分の既往歴を眺めていたら、高校1年が15年前であることに気付いた。

月日の流れは早いものである。

最近は予定が埋まりまくっているため、ブログの更新がなかなか出来ない。

しかし今日は、完全に1日オフであるので、こうしてブログを書いている。

嬉しい。

何をして時を過ごそうか。

オフの日には、洗濯をしたり、書籍を読んだり、音楽を鑑賞したり、DVDを観たり、将棋を勉強したり、絵を描いたり、ブログを書いたり、散歩に出掛けたりして、時を過ごしている。

自分自身ではもの凄く楽しんでいるのだが、

「じじいみたい。」とか言われる。(やかましいわ、ほっとけやw)

出来ればずっと、書を読み、文章を書いたりなんかして、時を過ごしていたい。

が、やるべきことも多いため、こういう自分の時間をいかに捻出するか、それに頭を使っているところだ。

まあ、でも本当は、人間の最終的な人生のゴールは死ぬことであるので、何ひとつやるべきことなんて存在しないのだけどね。

そんなことはとっくの昔から知っているし、タモさんもそう言っていた。(タモさんが言うなら間違いない)


死ぬことが最終的なゴールなので、人間の人生自体は無意味なものだ。

だから本当は、何もしなくても良いのだけど、

何もしなければそれはそれで、生きている限りは、多分苦痛になってくる。

何か暇潰し出来ることはないかと、きっと探し始めるだろう。

その上、忙しい時には暇を求めるくせに、暇な時には忙しさを求めるのだ。

人間って思うに、常に相反することを抱えながら生きているのだと思う。


俺も「暇だなー。」とか思っていたのだけど、

いざこうして忙しくなってくると、今度は逆に、

「暇になりたいなー。」とか言ってるからなw



「人間は自由の刑に処されている」

これはサルトルさんの言葉だが、まさにこの通りで、死ぬまでの間はずっと、

自由という名の刑に処されている。

人生自体は無意味なものだが、無意味だからこそ、勝手に自分自身の人生に、意味を与えても良いのだ。

「死ぬまでの間、俺はこうして生きる!」

「俺の人生の意味はこれだ!」ってね。

そうやって勝手に自分の人生に意味を与えておいて、死ぬまでの間、適当に暇潰ししておけば良いのだと思う。

趣味も仕事も、暇潰しの一環よ。

死ぬまでの間、何をしてもいいし、何をしなくても良い。


それこそ本当に自由なんだけど、自由だからこそ、漠然と不安感や迷いが生じてくる時もあるのだろう。

人間の価値、人間の人生は大したことないし、そんなに大それたものではないのだから、

適当に自分らしく生きれば良い。


おしまい。

人生ゲームを身体障害者としてプレイ中

どうも。

帰属先が定かではなく、アイデンティティーなるものはフラフラしている。


社会の規定上は身体障害者であるが、自分の意識の上では、普通の健常者だからだ。


このズレに悩んだ時期もあった。

障害者という枠に収めるなという思いもあったし、

正直、他の障害者のことを侮蔑もしていた。


「俺は車椅子に乗っているけど、障害者ではない!他の障害者と一緒にするな!」

こんな風に矛盾したことを思っていた。


だけど今は違う。

帰属先も分からないようなフラフラした状態でも、別にいいやと思えるようになった。

障害者だろうが、健常者だろうが、どっちでも良い。

俺は人間だ。

そして、俺という人間は、この世で俺しかいない。


若い時分は障害者と一緒にしてくれるなと凄んでいたが、今はそんな風に思わないし、他の障害者のことも侮蔑していない。


これは、「大人」になったともいえるだろう。



今後も俺は、身体障害者として生きるしかない。

人生ゲームを身体障害者としてプレイしているのだと思い、せっかく生まれてきたのだから、死ぬまで楽しんでやるか。

そんな心境である。


「窮するもまた楽しみ、通ずるもまた楽しむ。

楽しむ所は窮通に非ざるなり。」


本日のブログは、荘子の言葉で締めくくりとしたい。

おしまい。