いぐちゆうとの雑記ブログ

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なんとなくブレインダンプ

どうも。

よく俺は時間のある時に、

今自分が食べたいものは何かとか、今自分がやりたいことは何かとか、欲しいものは何かとか、そんなことを考えては、それを思いつくままに書き出しては、スマホで下書き保存している。

知り合いに、自己啓発的だと言われたことがあるが、普段生きていると、こういったことが埋もれがちになりやすい。

定期的に自分の脳内で考えていることを外へと出し、自分の目に見えるようにするのである。
(いわゆるブレインダンプ)

明確化することによって、今の自分自身の考えや精神状態を知ることが出来るし、人生の目標を設定したり、その目標を軌道修正することにも一役買う。


書いたものをじっと眺めていると、

「俺、こんなことを考えていたのか。何て卑しい人間なんだ・・・。」と愕然とする時もあるが、

暇な時こそ「ブレインダンプ」である。

俺は柄にもなく、大変有意義な時間の使い方をしてしまっている。

これは大変だ。

明日、多分大阪で、イカの群れが降ってくると思う。



ブレインダンプのやり方は、あるひとつのテーマを自分で好きなように設定して、5分ぐらい思いつくままに、ひたすら外へと書き出していけば良い。

(例)


☆「今食べたいものは何か」というテーマを自分で設定した。

2018年1月14日時点での食べたいものは、以下の通りである。5分間ひたすら書き出してみた。

エースコックのワンタン麺
(卵とネギ、若鶏の小間切れを入れる)

うな重

☆ちゃんこ鍋

吉野家の牛カルビ丼

☆天ぷらうどん

☆シチュー

☆焼肉

☆かつ丼

☆カラアゲクン(レッド味)

☆中華丼

☆たこ焼き

☆串カツ

☆あんまん

☆肉まん


これだけの食べたいものが浮かんできたが、


まさに欲だらけである。


お腹が空いた憐れな人間であると、再確認させられた。


おしまい。

俺の好きな女で、打線を組んでみた 2018年度版

どうも。

毎年、自分の好きな女で打線を組むことを、密かに楽しみにして生きているのだが、どうやらまたこの季節がやって来たようである。

これは義務であり、使命であり、暇潰しの一環である。


これを公表することに関して、一体何の意味があるというのか。

そう尋ねてきた人がいた。


その気持ちは分かるが、何でもかんでも意味を求めてはいけない。

これを公表したからといって、俺にとっては、何のデメリットもないが、まあ、意味を強いて挙げるとすれば、打線についてあれこれと考えている最中は、暇潰しが出来てしまう点だろうか。
(やっぱり意味はないんだと思います)



またすこぶる安心して欲しいのは、これを見せられたからといって、読み手側にとっても、特段何のデメリットもないことである。

危害が加えられることもないし、財産を失ってしまうこともない。

それどころか、この文章を読んでいる最中は、暇潰しが出来てしまうのだ。

画期的だ。

これはまさに、「win-win」の関係性である。

これこそが、俺が到達したかった理想の境地である。


俺は今、世界に幸福をバラ蒔いているのだと、確信してやまない。

またひとつ、新しい答えを見た気がする。





しかし野球の打線というものは残酷だ。

枠が9人しかない。

この9人という枠が、一体今までどれほどの監督を苦しめてきたことだろうか。

その苦しさたるや、計り知れない。

好きな女を9人に絞るとか、俺にとっては苦しみの営みであった。

きっとどんなクロスワードよりも難しい。



苦心惨憺した挙げ句、ようやく編成されたのが、この打線である。

暇があるならば、どうぞ眺めていって欲しい。



2018年のスタメン↓

1(遊)本田翼

2(二)のん(能年玲奈)

3(中)山本彩

4(三)新垣結衣

5(DH)ホラン千秋

6(右)ZARD

7(左)石田ゆり子

8(捕)鈴木杏樹

9(一)鈴村あいり




以上が2018年度のスタメンとなった。

順番に解説していきたい。




1番バッターは、バッサーこと本田翼である。

なんと彼女は1番バッターとして、4年連続で選出されている。

不動の地位を確立しつつある。

俺はやはり、ショートヘアの女性に弱いようである。




また2番には、のん(能年玲奈)を選出した。


あまちゃんでブレークを果たした後、事務所との兼ね合いで少し勢いを殺されてしまった感がある。


紆余曲折色々あっただろうが、今はその苦難さえも見事に跳ね返し、少しずつだが、浮上してきた。

偉そうなことを言って申し訳ないが、物凄く頑張っているなという印象で、彼女を見ていると、別に親ではないのに、親心が炸裂し、頑張って欲しいなと思ってしまう。

今後の彼女の活躍に注目したい。




ここからはクリーンナップとなり、3番には山本彩を選出した。

彼女もまた、お馴染みとなってきている。

実際、ソロライヴに行ったことがあるが、個人的に元気をもらい、心が救われた。

他人に元気や勇気を与えることの出来る人は、非常に稀有な存在だ。

この3番というポジションにじっくりと据え、将来的には4番バッターにしたい。

そんな逸材だ。





4番には、平成の吉永小百合こと、新垣結衣を選出した。

可愛いルックスで、基本的にはキラキラしているのだが、彼女の私生活の情報を、ネットやラジオで知れば知るほど、なぜかふと、底知れぬ「闇」を感じてしまうのは俺だけだろうか。

陰影が強いからこそ、輝きを増すのかもしれない。

さらに飼っているペットが、

ヒョウモントカゲモドキ」なのも高得点であり、なんか知らんが破壊力がある。

まあ、ガッキーは、不動の4番バッターである。

間違いない。


そして大事な5番だが、今年はホラン千秋を抜擢した。

俺の中で株がじわじわと上がり続け、見事クリーンナップへと昇格を果たした。

彼女は可愛い。


ここまで順に解説してきたが、

この打線の本当の凄さや怖さというものは、実は6,7,8番なのかもしれない。

何せ本当は3人とも、4番バッターになれるというのに、あえてこの下位に置かれているからである。

それが凄みを醸し出す。



ZARD,石田ゆり子,鈴木杏樹

強すぎるだろ。

この破壊力たるや凄まじいものがある。

その辺の10代や20代の女性を圧倒的に凌駕しており、もはや無双状態だ。


実年齢を見て、嘘だろと思うほどの美しさを保っており、3人には品性が備わっている。

抱きたい抱かれたいとかのレベルではない。

ずっと眺めていたいのだ。


そして最後に、見事スタメン入りを果たしたのは、AV女優の鈴村あいりだ。


選考理由は、

「エロい。可愛い。セックスしたいから。」である。

彼女を見ていると、身体がウズウズする。



いやはや、今年も強力打線となった。

何せクリーンナップが2つも存在している打線なのだから。

この打線でリーグ優勝、ひいては日本一を狙いたい。

おしまい。

人生のゴールは死ぬこと

人生のゴールは死ぬことだ。

これは誰しもに与えられたもので、変えようがない。

たとえどんなに知識や情報を、沢山頭の中に溜め込んだとしても、最後は死ぬ。

どんなに勉強やスポーツが出来ても、何かに秀でていたとしても、やっぱり死ぬ。

どんな風に生きてみても、最後は死ぬ。

何かを成し遂げたとしても、結局やっぱり、最後は死ぬ。

そう、人間の人生最後のゴールは、死ぬことなのである。

こんなことを考えながら生きている人間が、果たして世の中にどれだけいることか。


ゴールが死ぬことであると決まってあるので、これを幸と思うか不幸と思うかは、人それぞれだ。

人生が有限であるからこそ、頑張って生きていこう、楽しんで生きていこうと思うのか。


それとも反対に、有限であるからこそ、結局は何をしても同じで無駄であると悟り、最後は自らの手で、人生に終止符を打つのか。

正直俺は、どちらの気持ちも分かる。

分かってしまう。


生まれてから死ぬまでの間、人生を楽しんでやるぞという俺もいる。

反対に、何をしたところで結局最後は死んでしまうのかと、悲観にくれる俺もいる。


俺は、この葛藤の中で生きているタイプだが、同じような葛藤を抱く者は、果たして世の中、どれだけの数が存在しているか。


こんなことを一切何も考えずに、ただただ、毎日が楽しいと思えるような人間は、はっきり言って1番強いと思うし、幸福である。

頭の賢い人から見れば、一見馬鹿に見えるかもしれない。

だが個人的には、1番得しているのではなかろうかと感じる。

俺もそちら側に行きたかった。

だが、生憎、物事をネチネチと考えるタイプの人間のようなので、悲しいが断念してしまった。


人生なぞ無意味だ。

そんなことはとっくの昔から知っている。



で、困ったことに、このことに絶望して自殺を選ぶのかというと、そうでもない。

生きる意味は無いけど、死ぬ理由もないのである。

だからこうして、まだダラダラと生きている。

どうしたものかと思案に暮れ、なんとなくネットで検索していた時に、ある言葉に出会った。

そこには、

「人生など無意味だ。でも意味がないからこそ、自分で意味を作り出せるのだ。」

みたいなことが書かれていた。


俺は密かに感動した。


そうだ、この言葉の通り、生きる意味は、自らの手で作りだしてしまえばいい。

とりあえず、デリヘルで1万人抱くことを目標にして、それを生きる意味にしておきます。


おしまい。

雑煮

どうも。


俺は雑煮が好きだ。

毎日書いている日記を読み返してみると、

ここ数年、11月〜2月にかけて食べていることが判明した。

世間一般的には正月ぐらいしか食べないらしいけど、俺は違う。

寒い季節になってくると、

「お、そろそろ食わねばならんな。」とか言い出して、まるで自分の中の義務のようだ。

雑煮は作るのが簡単だし、毎回作る度に、どんな材料を入れようかと考えれば、創造性を養うことにも繋がる。

そして何よりも、身体が温まる。

これを最初に考えた人は素敵だ。

俺の好きな「雪の宿」を、1枚だけあげたい。

自分の命と同じぐらい大事にしている雪の宿をあげてしまうのだから、かなりの太っ腹である。

これは明日、槍が降るに違いない。





おしまい。




渡る道路は糞だらけ

どうも。

渡る道路は糞だらけだ。

ひと度外を歩きだせば、あっちにも糞、こっちにも糞である。

たとえ同じ道を毎日辿っていたとしても、そこには地味な変化がある。

昨日には存在していなかったのに、今日になると新たな糞が、道端に落ちている時があるのだ。

節操がないし、はしたないし、本当に油断ならない。

犬猫の糞、鳥の糞、そして人間の糞。



車椅子ユーザーの俺にとって、外出して道路を進むことは、もはや修行であり、鬼の所業である。


神経を尖らせながら、血眼になって進まなければ、いとも簡単にあっさり踏んでしまう。

細心の注意を払ってはいるが、それでも踏んでしまう時だってある。

そんな時はもちろん、空を仰ぎ見ながら、

「アーメン」と呟き、目を閉じる。

これが恒例の行いであり、タイヤの供養だ。


糞だけでなく、車椅子ユーザーの敵は多い。



画鋲、階段、段差、ガム、カエル、水たまり。

挙げたらキリがなくなるが、外出する時は、決して油断してはならない。

その油断こそが、己のタイヤを殺すことになるのだから。


おしまい。

馴染みのスタイリスト

どうも。


俺は15歳の時から、ずっと同じスタイリストさんに髪をカットしてもらっている。

今ではその人は、自分のお店を持っているので、時の流れを感じつつも、なんか偉く出世したものだなと感心しているのだが、最近、ふと思うことは、その人が亡くなってしまったらどうしようかということだ。




年賀状のやり取りをしたり、遊びに行ったりもする仲なので、一般的な客とスタイリストの関係性に比べれば、ある程度は濃い。

中学3年生の頃から知っている仲なので、お互いの趣味嗜好なんかもある程度分かっているし、阪神タイガースのことに関してベラベラ喋ることが出来るし、そんなに気遣いせずともカットしてもらえるのだから、その存在は貴重であり、とても気楽だ。


せっかくここまで築き上げてきた関係性なのに、それが死によってゼロになってしまうかと思うと、とても悲しいし、とてもめんどい。

また別のスタイリストとイチから関係性を築き上げていかねばならないなんて、そんな作業は過酷な重労働で、今からはとてもじゃないが、めんどい。ダルい。

カット技術や値段もももちろん大切なのだが、何よりもそこの店に行けば、気分が良くなるという点が素晴らしい。

気分転換したい時は、HotPepperを使って予約している。

2ヶ月に1回の頻度で通っているが、俺の気分が良くなるのも、全てはそのスタイリストさんの心遣いと気配り、人徳のなせる業だと思う。

とても自己中心的な考え方で申し訳ないが、極力、そのスタイリストさんには、俺が死ぬまでは生きていてもらいたい。


たとえもし死んでしまったとしても、教会や世界樹の葉で復活させよう。

それぐらいの熱い想いがある。

おしまい。

ひとりの時間と誰かと一緒に過ごす時間

どうも。


さてここ最近、立て続けにブログ記事を連投しているが、どこまで続けることが出来るのか。

見物である。

「あ、こいつ暇なんだな。」

そう思った方もいるであろう。

大丈夫だ。何の問題もない。

その通りだから、否定しようもない。

何の問題もない。


言っておくが、文章を書きまくっている奴は、基本的に暇だぞ。

暇があるからこそ、ここに投稿出来るわけで。


聖なる前夜クリスマスイブは、永谷園の鮭茶漬けと創味シャンタンのスープ餃子を食べて過ごした。

食後、カフェオレを飲みながら、ZARDのアルバム曲を聴いていた。

静かな時の流れに身を浸し、ひとり酔いしれていた。


外の喧騒とは、まるで無縁であった。

実はありがたいことに、クリスマスイブの1週間前に、「24日に飲み会しませんか?」と誘われていたのだが、それを断ってしまった。

なぜ断ったのか。

それは日々、喧騒とした地方都市に浸かり、他人との関係性のなかで生きているがゆえ、たまには静かでしっとりとした時間を過ごしたいと思ったからだ。

人はいつでも、自分の置かれた境遇の反対の場所を求める。

喧騒な場所に住むならば、静かな場所に。

静かな場所に住むならば、喧騒な場所に。

都会に住むならば、農村に。

農村に住むならば、都会に。

要は隣の芝生が青く見えて、無い物ねだりをする生き物なのだ。

俺は基本的に、ひとりで時間を過ごすことに対しては、何の抵抗感もない。

ひとりで過ごす時間は、自分の頭と心を豊かにする。

日頃の日常生活で、無意識に作り上げられてしまったごちゃごちゃとした脳内。

それを整理してクリアにしたり、時に思い出を反芻したりすることも出来る。

もちろん寂しさを感じる時もあるが、大変有意義な時間の使い方だと思う。

また、今その寂しさと共に生きているのだと思うと、孤独感に愛しささえも感じられるようになってくる。

好きなように時間を使っていい自由さもある。

ワクワクしてくる。

寂しい気持ちと自由は、ひとつでセットなのだ。


翌日のクリスマスは、家族とたこ焼きパーティーをして過ごした。

クリスマスを家族と一緒に過ごしたのは、実に3年ぶりのことであった。

だいたい井口家というものは、他人とベタベタするような関係性を極力避け、ひとりで自分の時間を過ごすことを楽しむ奴ばかり集結している一族であるため、皆マイペースでバラバラなことが多いのだが、たまにはこうやって集うのも良いものであると思った。


ゆったりとしたひとりの時間とワイワイとやる家族との時間。

2日間とも、なかなか良い時間を過ごせた。

今後もこのようにして、バランスを取りながら生きていきたい。


おしまい。