いぐちゆうとの雑記ブログ

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睡眠のリセット機能は素晴らしい

どうも。

昨夜は春の夜空を眺めながら外気を吸い込み、ひとり物思いに耽けっていた。


なぜ自分は身体障害者として生きているのだろうかと。


つくづく数奇な運命である。


しかしどんなに考えてみたところで、よく分からなかった。

天意なのか。

それとも何か使命でもあるのか。

そんなことをあれこれ考えながらも、人生の最終的なゴールは死ぬことであるので、その日が訪れるまでは、焦らずにのんびり生きていこうと思う。


ただ最近分かったことは、眠気に襲われたり、睡眠不足気味の時には、ネガティブモードになるということだ。

普段はポジティブでもネガティブでもなく、

わりと現実主義的であると思っているが、どうも眠たくなると、悲観的になったり、良からぬことを考えたりするようである。

そういう時は、極力すぐに眠るようにしている。

じゃないと自殺行為に及ぶ可能性があるからだ。


眠って目が覚めると、結構スッキリしていて、そのような考えは消えている。


睡眠のリセット機能たるや、素晴らしいものがあると、ひとり感心している次第である。


「一体お前は何の話をしているのだ?」と言われそうだが、睡眠は大事だというありきたりな話である。


おしまい。

春の夜空

どうも。

自宅の窓を開け、春の夜空を眺める。

こんな夜中でも、ちゃんと雲はゆっくりと流れている。


日中はそうでもないが、やはり夜は外気が冷たい。

寒いとさえ感じる。

冷たい外気を吸っていると、心が少しばかり落ち着く。

「なぜ障害を背負ってこの世に生まれてきたのだろうか?そしてなぜ今も生きているのだろうか?」

こんなことを考えながら、ひとり静かに夜空を眺める。

死ぬ時は、心穏やかに死にたい。


おしまい。

何をしていても寂しさは埋まらない だから素直に 寂しさを受け止める

どうも。

現在俺は、ひとり暮らしをしている。

物騒な堺市堺区から離れ、静かで安穏な堺市北区に帰ってきたので、今は精神的な満足感でいっぱいだ。


しかし人間は面倒な生き物で、精神的に満たされてくると、今度は刺激を欲していく。

この安定した精神状態を、ぶち壊そうとするのだ。

最近は刺激が足らず、すこぶる暇だと感じるため、

何か新しいことをすべきなのかなと思うが、一体これから何をしていいのかが分からない。

自分のやりたいことや好きなことを、死ぬまでとことんすればいいだけの簡単なお話だと知っているが、「人間は自由の刑に処されている」とサルトルが言っていた所以が、今分かったような気がする。

(つべこべ言わず、前に言っていた自動車免許を取得しろボケ)

しかも、暇だと感じると同時に、寂しさも感じる。

ひとり暮らしは気楽で快適だが、この寂しさがセットで付いてくるのは仕方ないことだ。

竹内まりやもそう歌っていた。


暇な時間があるから、寂しくなるのか。

多忙ならばきっと、寂しさなんて感じない。

だがこの年齢ともなると、この寂しささえも、愛しいと感じるし、悪いことばかりではないと気付いた。

寂しさを埋めようとしてペットを飼育したり、読書や勉強、スポーツや筋トレに打ち込んだり、何かに依存したりするという話はよく聞くが、ああいう類いではない。

何をしていても、一時的には忘れることは出来るだろう。

だけど寂しさというものは、何かで埋めようとして、簡単に埋まるものでもない。


この年齢ともなるとそれは知っているし、そもそも埋めようという考え方が違うのかもしれない。

何かで埋めようとするよりも、寂しさをありのままに受け止め、

「そうか、俺は今寂しいんだな。」と素直に寂しい自分を認めてしまえ。


普段ひとりで暮らしていて寂しさを感じるせいか、最近では、その分人に会った時にはもの凄く優しく出来る俺がいる。


「寂しさを感じる分、人は人に優しく出来る」

これをどこかのキャッチコピーにして売り出したいし、それが寂しさのメリットなのかなとふと思った。


そう考えると、寂しさもデメリットばかりではない。

物事なんて、捉え方次第だ。



また、俺という人間は、本当に厄介な生き物だなと思う。


人付き合いを極力カットしたいくせに、人とのコミュニケーションにはわりと飢えているのだ。

これは相反することだし、俺という人間は、とても面倒な生き物だ。

常に相反することを抱えながら生きている。

でもそれが人間なのかなとも思う。


一時期、よく風俗に通っていた時期があったが、あれは性欲を満たすだけでなく、単純に寂しさを埋めようとしていたのだろう。

誰かとコミュニケーションを取って、この寂しさを埋めたい。

そしてついでに、性欲も満たしたい。

その両方の欲望を叶えることが出来るため、風俗は本当に素晴らしいと思うが、コミュニケーション欲を満たすことの方が比重を占めていたと思う。


だけどな。

だけど一時的には忘れることは出来ても、何の根本的な解決策にもなってなかった。

帰宅すれば、また寂しさが顔を覗かせてくるから。


何をしていても寂しさを埋めることなんて出来ない。

それに気付いてからは、何かに依存することはやめた。

風俗も、寂しさを埋めるために利用するのではなく、単純に楽しむことにした。

この寂しさを素直に受け止めた上で、人と接する時には、極力優しくしようと決めた。

こういう風な気持ちに切り替えてからは、たとえ寂しさを感じたとしても、なんか気楽になってきた。


(追伸)

人に優しい人って、案外寂しがり屋なのかもな。




おしまい。

更新頻度と記事内容の質の高さ それを両立させているブログは本当に素晴らしい

どうも。

いつの間にか読者が増えていた。

ありがたい話である。

いつの間にか読者が増えているように、世の中、いつの間にか事が進んでいることが多々ある。

切手代や自動販売機のジュース代が、いつの間にかじわじわ値上がりしているかのように。


そして俺も、いつの間にか年齢を重ねていって、いつの間にか死んでしまうのかと思うと、なんだか切ない気持ちになってくる。

あーから揚げ美味しい。



昔、どうすればブログの読者が増えるのかと思い、Googleちゃんで検索していたら、

「続けていたら勝手に増える」という真にありがたい記事にヒットした。

「バカ野郎!それじゃあ答えになってねぇーよ!俺は読者が増える方法を知りたいんだよ!」とひとりツッコミしながら記事を読んでいたのだが、今ならば分かる。

あれは本当だったんだなと。


出来る限り更新頻度を多くして、さらにブログの内容が良質なものならば、勝手に読者は増えていくんだと力説していたあの記事の言葉は、あながち間違っておらず、唯一の「真理」なのかもしれない。



更新頻度は多いけど、ブログの内容がペラペラに薄く、

「◯◯行ってパンケーキ食べてきたよ!美味しかった!」だとかいう小学生のガキでも書けそうな文章を毎日のように書いているアホブログだとか、


逆に更新頻度は少ないのだけど、ブログの内容はとてもタメになったり、面白かったりするブログだとか、

どちらか片方に特化しているブログはごまんとあるもんな。


更新頻度の多さと良質な記事を両立させることは、多忙な現代社会においては難しいのかもしれん。

やはり時間に余裕があって、書くこと自体が楽しいと思える人種じゃないと、その両方を勝ち得ることは出来んのだろうなとは察しがつく。

毎日きちんと更新していて、さらに読んでいる者を楽しませてくれるようなブログの書き手は、本当に尊敬に値する。

他の各ブログに対して、

「更新頻度と記事内容の質はどうだろうか?」と意識しながら読んでいくのも、暇つぶしの一環として、なかなか面白いのではないだろうか。



おしまい。

これからの人生

どうも。


冒頭の挨拶を元に戻した。(飽きたから)

10月で三十路となるのだが、なぜか今からワクワクしている。


俺が10代の頃から、きっと三十路以降の人生は楽しいものなんだという予感があったし、今でもそれは持っている。

「変に期待せんほうがええで」という人や、

「30代は楽しいで」という人など、30代に対する感想は人によって様々だが、個人的には羨ましいと思うし、なんだか楽しそうな印象だ。


体力的にもまだまだ元気だし、10代や20代の頃に比べれば、知識や経験値もある。

おまけに自由に使えるお金を持っていれば、それはハッピーづくしではないか。

そんな風に思った。




また、

「これからの人生において、自分は一体何を選択し、そして何を捨てようか。」と考えることが多くなってきた。

自宅でコーヒーを飲みながら、ひとりで過ごしている時が顕著だ。


自分の選択次第で、今後の人生の展開や状況が、如何様にも変わる。

そして、自分の選択次第で、如何様にも変化させることが出来る。

そう考えると、ワクワク感と緊張感に包まれる。

自由と責任。

これが表裏一体であると。

何がしたいのか、何が好きなのか、何を得たいのか、何を築きたいのか。

毎日俺は、自問自答している。



(追伸)

やりたいことを全て行ってから死にたい。

おしまい。

「どんなタイプが好きですか?」だとかいう質問

どうも。


「どんなタイプの女性が好きですか?」という質問がある。

生きているとよく出くわす、ありきたりな質問だ。

だが、これが結構難しい。

どう答えればいいのか、はっきり言って分からない。


だからいつも適当に、

「好きになった人がタイプです。」と答えるようにしている。


この手の質問に対しては、無難に適当に答えておくのが最適解だと思うが、

例えどんな答え方をしても、心象を悪くする人間は存在するのだろう。

「どんなタイプが好きかをこっちはリサーチしてるのに、好きになった人がタイプって・・・答えになってねぇーよ!」と怒りだす人もいるw




この質問に対してよく考えてみた結果、最近になって分かったことがひとつある。

それは、

「向こうからよく話しかけてくれる女性」がタイプだと。

こちらから話題を投げかけて、会話をリードしたり、会話を広げたりするのがダルいと思っているのだろうか俺はw

この年齢なので、もちろんそれは出来ないことはないが、

向こうからベラベラ話しかけてくれる方が楽だと、最近気付いた。


そこに加えて、話題が豊富だとか、人とは違った見方で物事を捉えているだとか、ユーモアのセンスがあるだとか、

そういう類いの特典があれば、尚更素敵だと感じる。



(追伸)

最近になってようやく、恋愛だけでなく、人間関係において、全体的に「会話」を重視していると分かった。


おしまい。

自動車免許を取得しようと考えている

おはようございますこんにちはこんばんは!




車椅子常用なので、普通の一般人に比べれば、ほとんどの人がとっくの昔に成し遂げたことに関して、ワンテンポもツーテンポも遅れていると感じる。

例を挙げるなら、自動車免許の取得がそうだ。

もちろん30歳を過ぎてから取得する人もいるが、だいたいは若い内に取得するのだろう。


身体障害者だと、健康面や経済面で遠回りさせられることも多いから、そんな人たちが羨ましい気がする。


その分、面白いことや楽しいことは、人生の後半に取っておける、残しておける、そういうポジティブな考え方も出来るのだが・・・。

最近では、自動車免許のことを考えるまでの余力が出てきたので、今後は取得しようと思う。

なぜ取得しようと考えたかというと、やはりなんといっても便利だからだ。

普段の生活において、ひとりで電車やバスなんかの公共交通機関も利用出来るけど、駅員や運転手に対して気を遣わないといけないし、体力的にもしんどいものがある。

車だとその辺りが解消される。


また、利便性や気疲れの面だけでなく、のんびりドライブもしてみたいから、免許を取得するのが良いだろうなと考えた。



よし、今後の目標としては、

◯デリヘルでHカップの女性を抱くこと

◯セックスのセミナーを受けること

◯自動車の免許を取得すること


この3点でいきたいと思う。

おしまい。