井口佑斗のブログ

井口佑斗のブログです。

人生ゲームを身体障害者としてプレイ中

どうも。

帰属先が定かではなく、アイデンティティーなるものはフラフラしている。


社会の規定上は身体障害者であるが、自分の意識の上では、普通の健常者だからだ。


このズレに悩んだ時期もあった。

障害者という枠に収めるなという思いもあったし、

正直、他の障害者のことを侮蔑もしていた。


「俺は車椅子に乗っているけど、障害者ではない!他の障害者と一緒にするな!」

こんな風に矛盾したことを思っていた。


だけど今は違う。

帰属先も分からないようなフラフラした状態でも、別にいいやと思えるようになった。

障害者だろうが、健常者だろうが、どっちでも良い。

俺は人間だ。

そして、俺という人間は、この世で俺しかいない。


若い時分は障害者と一緒にしてくれるなと凄んでいたが、今はそんな風に思わないし、他の障害者のことも侮蔑していない。


これは、「大人」になったともいえるだろう。



今後も俺は、身体障害者として生きるしかない。

人生ゲームを身体障害者としてプレイしているのだと思い、せっかく生まれてきたのだから、死ぬまで楽しんでやるか。

そんな心境である。


「窮するもまた楽しみ、通ずるもまた楽しむ。

楽しむ所は窮通に非ざるなり。」


本日のブログは、荘子の言葉で締めくくりとしたい。

おしまい。

引っ越し完了

どうも。

2月15日(木)に引っ越しを終え、無事新居へとやってきた。

業者はワゴン車で来て、費用は3万円だった。


本当はもっと安い業者はあったが、不動産会社のスタッフさんが紹介してくれた引っ越し業者だったので、なかなか断りづらく、仕方なかった。

俺からの祝金だ。持っていけ。




堺区から地元の堺市北区に戻ってきたわけだが、なぜか妙に落ち着く。


前に住んでいた所と比べ、とても静かだ。


北区を出る前は、散々地元のことをディスっていたくせに、いざ帰ってきてみるとこれである。


若い時分は散々地元をディスっていた奴が、だんだんと年齢を重ねる毎に、恋しさや懐かしさが溢れだし、終いには故郷を想い始める。


まさに、「離れて分かる地元の良さ」を、自ら体現してしまった感がある。

前に住んでいた場所は1Rだったが、今住んでいる所は1Kだ。


部屋の平米数は大差ないのだが、なぜか解放感がある。

新しい場所に引っ越しすることが出来たという嬉しい気持ちが、解放感に繋がっているのかもしれない。


何にせよ、第2章の幕開けという感覚がある。



おしまい。

冷蔵庫の中身を整理するため、ひとりパーティー状態

どうも。

引っ越しの荷造りを終えた。

ホッと一息である。

今日は、冷蔵庫の中の食料を整理するため、

「ひとりパーティー」状態となっている。

食料を廃棄するのはもったいないし、引っ越しする前に極力荷物は減らしておきたい。


結論として浮かんできたのは、

「出来る限り今食べる!」というものだった。

普段は計画的に、計算しながら冷蔵庫の中身を減らしているのだが、今日はそんなことはお構い無く、問答無用で次々と胃袋に放り込むだけである。

朝と昼は兼用なので、

1日2食で事足りる身としては、なかなか辛いものがある。

昨日は三国ヶ丘にあるうどん屋「麺吉どんどん」の「どんどんうどん」なるものを宅配してもらったので、いつもより食べる量が多かった。


そのせいか今日は、冷凍食品の山盛りポテトを食べただけで、すでに腹が膨らんでいる。

「極力荷物を減らすためや!廃棄ロスをなくすためや!」


そう割りきって奮闘しているが、すでに胃袋は死にそうだ。

袋のラーメンを、引っ越し業者にプレゼントするという方法もあるなとふと思い付いたが、

「これ、袋ラーメンです。良かったらどうぞ。」
と引っ越し当日に客に渡されても、

「気持ち悪い」とドン引きされやしないだろうか。



半年分とか1年分とかならまだしも、

5食入りの1袋だけだからな。


「ありがとうございます。」と受け取ってもらえたとしても、後で俺のいない所で、


「あの客ヤバい。引っ越し当日に、袋のラーメンを渡してきたんだがw」と陰口叩かれるのではないだろうか。


受け取ってもらえるならまだマシだ。

これが、

「ありがとうございます。結構です。」と笑顔で引っ越し当日に断られたりしたら、末代までの恥になるなきっと。

しかも、1袋ぐらいならば、

素直に荷物と一緒に運べやと思ってきた。


一瞬良き方法だと思ったが、やっぱりこの方法はないな。

大人しく運搬しよう。そうしよう。


おしまい。

近況報告

どうも。

一昨日は実家に帰り、ピザを注文し、

家族と一緒に食べた。

母、妹、弟の近況を聞いたり、会話することが出来たので、有意義な時間だった。



昨日は自宅へと戻り、業者に引っ越しの見積りを行ってもらった。


その後、雨の降る中、仁徳天皇陵の前を車椅子で疾駆し、三国ヶ丘ミスド前へと向かった。

そこで妹と合流し、ミスドで不動産会社のスタッフに渡すための差し入れを購入した。

その後、妹と一緒に不動産会社へと向かい、

全ての仲介手数料を支払い、署名や捺印を行った。

これで契約完了となったため、ちょっとホッとした。

また、引っ越し日は2月15日に決定したため、明日から本格的に荷造りを開始することになる。

ちょっとバタバタしてるので、なかなかブログ更新が出来ていなかった。

しかし今日は束の間の休日なので、カフェオレを飲みながら、こうして今書いている。

このブログの更新を、密かに楽しみにしている人が存在するならば、ホントに申し訳ないなと思う。

書く時間を捻出し、出来るだけ書くつもりでいるが、毎日なんやかんやとすることがあるため、疲れてしまって書けない時もある。



近況報告のみの無味乾燥的な内容となってしまったが、生存確認も兼ねて、本日のブログはこれにておしまいとしたい。



おしまい。

迷ってしまった時は、心がワクワクするかどうかを常に問いかける

どうも。

最近、自分なりの「身体障害論」だとか、

自己啓発論」みたいな類いの文章ばかりを書いてる気がする。

なぜだろう。

これは三十路前のせいなのか。

己の生きてきた今までの足跡を静かに見つめ直したり、現在の自分自身の境遇についてあれこれ考えたりする時間が、確実に増えているのだ。



プロフィールには、主に「三国志」に関する記事を書くと宣言しているくせに、これである。


まるでこれなら、「書く書く詐欺」ではないか。


それなのに今日も、

三国志」に関する記事は書かない。
(実はホントは、何も思いつかないので書けないだけ)


三国志」の文章を期待している人は、ごめんちゃいである。


お互いが生きていたら、またその内どこかで目に触れる機会があるだろう。


いつか俺が思いつくだろうから、気長に待っていて欲しい。(80%以上の確率で思いつかない)


さて、本文に入る。

今は29歳だが、決めたことがある。


それは今後の人生において、

自分の心がワクワクする方向に行き、死ぬまでの間中、ずっとワクワクすることをしていこうと。

自分が選択すべき道は、果たしてどれなのか。


そんな風に迷ってしまった時は、

自分にとって、心がワクワクするかどうかを問いかけようと思った。

「心の底からワクワクするかどうか」を基準にして生きてみたら、人生結構気楽なのではないだろうか。



人生に基準を設けるべきかどうか。

それは人それぞれだろうし、設けたかったら適当に各自しろと思うが、

もし設けるとしたら、これぐらいのシンプルな基準の方が、丁度良いのではないか。

アホだけど行動力とコミュ力だけはある奴だったり、そこそこ頭が賢くて社交性のある奴だったりを眺めていたら、人生を難しく捉えていくことが、何だか馬鹿らしくなってきたのだ。


「心がワクワクするかどうか基準にして、すぐに行動を起こす。」

煩雑な世間だからこそ、

シンプルな考え方やシンプルな生き方の方が、

上手くゆくのかもしれない。



おしまい。




















おしまい。

自分の考え

どうも。

最近、自分のやりたいことが多過ぎて困っている。

青春18きっぷで旅に行きたい。」
(場所は未定)

「山形でパラグライダーがしたい。」
(車椅子ユーザーでも出来るらしい)

「久しぶりにチェアスキーがしたい。」

「デリヘルで1万人の女性を抱きたい。」
(まだ500人ぐらいしか達成していない)




次々と頭に浮かんでくるのである。



これは良い兆候だ。

かつては悲観的な考えに身も心も蝕まれ、ずっと動けず、ただただ苦しんでいた頃があった。


だがこの年齢になってみて気付いたのは、そんな風に物事を捉えているだけではいけないということだ。


もちろん、悲観モードが全て悪いというわけではない。

悲観的になることも、良い面だって存在する。

例えば、悲観的になることで、予め最悪の事態やリスクを想定することが出来るし、自分の欠点や足りないものは何かと考えを巡らすことが出来る。

金メダルを獲得した野口みずき選手は、

自分は結構ネガティブだと言っていた。

だからこそ、足りないものは何かと考えることが出来るとも。

ネガティブな考えは、自分の目標の実現可能性を高めることに繋がるのだ。

悲観モードは、メリットも存在するから、今でも全否定はしないが、

「どうせ人間最後は死ぬ。だったら死ぬまでの間、ずっと自分の人生を楽しんでやろうではないか!」という気持ちになってきただけだ。


今の精神状態は、物凄くフラットでニュートラルだと感じる。




また、やりたいことは主に、短期間ですぐに達成出来るものと、長期間で達成出来るものの2種類存在する。

すぐに達成出来るものは、極力すぐに達成すべきだと思うが、社会人である以上はそうはいかない。


仕事や家事など、自分のやらなければならないことも多く存在し、ある程度の時間の制約も受ける。

それは仕方ないことだが、

それでも毎日少しずつでも、達成するように行動している。



また余談だが、俺の場合、

そのやりたいと思ったことが、本当に自分にとって糞ほどやりたいことなのかどうかを確かめる時がある。

まずはそのやりたいことを紙に書く。

そしてそれを見て、

自分の心がワクワクするのかどうかを、自分に問いかけるのだ。

もし心の底からワクワクするのなら、それは自分にとっての本当にやりたいことなので、実際の行動に移していかねばならない。

これはあくまでも俺のやり方なので、真似してもいいし、真似しなくても構わない。好きにしてほしい。



「自分が心の奥底からワクワクするかどうか。」を基準にして生きてみたら、なんかとても、人生が気楽になってきたのだ。


今後とも、焦らず確実に、自分のペースで達成していきたい。


(追伸)

この文章は、ZARDの「気楽に行こう」を聴きながら書きました。


なのでこの文章は、「気楽に行こう」の成分が含 まれております。

ご了承下さい。


おしまい。

「 最強のふたり」を観た

どうも。

今日は暇だったので、自宅で「最強のふたり」を観た。



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実話に基づいた作品だそうだ。

自分自身が車椅子常用だということもあってか、ずっとこの映画に興味はあった。


だが、観れずじまいでいた。

日々生活していると、なんやかんややる事が多くあって、意外と先延ばしになってしまうものだ。


〈冒頭のあらすじ〉

事故で全身麻痺になり、首から下は動かないフィリップ。

車椅子生活を余儀なくされてはいるが、かなりの富豪である。


フィリップは介護士を雇用するために、自分の邸宅で面接を実施していた。

そこへ失業手当をもらうためにやって来た、黒人青年のドリスと出会う。

ドリスはフィリップに向かって開口一番、

「不採用のサインをくれ。」と言い出した。


「一体こいつは何言ってんだ?」とフィリップと面接官は驚いた。


明らかに場違いな発言だったけど、

就職活動をしたという履歴さえゲット出来れば、ドリスは失業手当を貰えるからだ。

逆にこれがフィリップの興味を抱かせることになり、ドリスを自分の介護士として採用することに決めたのであった。

これが最初の簡単なあらすじだが、

なぜドリスは採用されたのか。

「介護資格を持っていて、実務経験があります。」だとか、「障害者のフィリップに対して特別扱いしません。」だとか、そういうことばかり言う他の応募者に比べ、ドリスは明らかに異質な存在であった。

(特別扱いしませんと発言している時点で、もうすでに障害者を特別視している)



これはあくまでも個人的な見解だが、金持ちは希少性があったり、オンリーワンな存在を好む。

いわゆるレアな存在を、自分の手元に置いておきたいのだ。


もちろん、採用された理由は、それだけではない。


「障害者=保護されるだけの存在」とか「障害者=可哀想な人」とか、応募者たちがフィリップのことをそんな風に特別視しているのが透けて分かり、嫌気がさしていたのだろう。


綺麗事やおべんちゃら。


そんなことばかりを言う他の応募者たちとは違い、ドリスは出会った最初からフィリップのことを、

「障害者」扱いなんてしなかった。

(ただただ、失業手当が欲しかっただけ)


「障害者と健常者」という視点で関係性を捉えているのではなく、

心もあり血の通う、同じ「人間と人間」として捉えているドリス。

フィリップはそこを見抜いたのだろうし、そんなドリスの態度が、心の琴線に触れたのだろう。




また、フィリップはお金を糞ほど持っているが、身体的な自由はほとんどない。

ドリスは逆で、身体的な自由はあるが、お金をもっておらず、貧乏だ。

何かを失った者同士だからこそ、心の奥底で共鳴しあうことが出来るのかもしれない。

まるで呪いとも思えるような普段の自分の境遇から引きずり出し、新しいワクワクするような世界を見せてくれる存在。

一時でもそこに、夢や希望を与えてくれる存在。

お互いがお互いをそう思えたとき、

そこには確かに、固い絆や友情が芽生え始める。



そんな二人を見ていて、俺は切ないながらも、微笑ましい気持ちになった。





黒人と白人。

クラシックとソウル。

文学的で知性的な会話と下品だけど笑える下ネタ。



二人の生きている世界は、180度異なる。


あまりにもコントラストが多く存在するため、

思わず、計算されたコントラストを設定したのかなと思っていたが、どうやらこの映画は、事実に基づいているようである。

俺はそこに好感を持つことが出来た。


この映画がウケた、最大の理由ではないだろうか。



(追伸)


そういえば俺の友達も、俺のことを車椅子だということを忘れている時がある。


「あ、そういえば井口は、車椅子に乗っていたんや!忘れてた!ハハハ( ´∀`)」と。


俺はどうやら、「特別視」していない友人に出会えたようだ。

これは、本当にありがたいことである。

おしまい。