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三国志の陶謙と公孫瓚、果たしてどちらがクソなのか。 その1

陶謙(トウケン)と公孫瓚(コウソンサン)。


どちらも三国志演義では、良きイメージで脚色塗装されている二人だ。

演義は基本的に、劉備をメインとしているため、彼に関係のあった奴らのことは、基本的に、悪くは書かれない。

この二人も、劉備と関係のあった間柄なので、悪くは書かれていない。

だか今回は、三国志演義ではなく、史実に基づき、この両者を比較してみたい。

果たして、どちらがクソなのか。

それは最終的に、読者の皆様に判断してもらいたいが、ここでは、両方ともクソな奴だという前提を踏まえて、話を進めていく。

二人のファンの方には申し訳ない。

ここで、最初に謝っておきたい。




また、三国志を題材にした電子書籍を出版している身としては、三国志の世界は、クソな奴がゴロゴロいるなという印象だが、今回はあえて、この二人をクローズアップしてみた。

さあ、話を進めていこう。




陶謙(トウケン)
西暦132年〜194年。
徐州牧。


公孫瓚(コウソンサン)
西暦〜199年。
北平太守。


まずは陶謙

〈クソエピソード その1 自業自得〉

下邳(カヒ)で皇帝を自称していた闕宣(ケッセン)という奴と手を組み、曹操の領地であった泰山郡にて略奪を行った。

曹操は激怒し、その報復として、陶謙の領地であった澎城国を攻めた。

陶謙は、自分から先に仕掛けたくせに、曹操の報復行為に激怒し、自慢の丹陽兵を率いて、澎城国の救援へと向かうが、ここで曹操青州兵に負け、丹陽兵の部隊は壊滅した。


陶謙は、本拠地の東海郡まで逃走し、公孫瓚に救援を依頼。

公孫瓚のもとより、劉備と田カイが駆けつけてきたが、この時曹操軍は、兵糧不足により、軍を撤退させた。

救援として駆けつけてきた二人であったが、到着してみると、曹操軍はいない。

やることがなくなり、田カイは公孫瓚のもとへと帰還し、劉備はそのまま陶謙のもとに留まった。

曹操に自分からちょっかいを出しておきながら、結果、自分で自分の首を絞めるという展開に。

この一連の流れをみるに、感想としては、「クソ」というよりも、「アホ」である。

淡々と自己の勢力拡大をしておれば良いものの、皇帝を自称しているような男と手を組むとは、一体何を血迷ったのだろうか陶謙は。



〈クソエピソード その2 ただの自己中〉


趙昱(チョウイク)という名士を招聘しようとしたが、断られたため、刑罰をもって脅し、無理矢理仕官させた。

脅して無理矢理仕官させるとかw

ただの自己中やん陶謙



〈クソエピソード その3 やっぱり自己中〉

陶謙は、「内政は張昭に聞け。外交は周瑜に聞け。」というあの有名な台詞でお馴染みの名士、張昭を招聘しようとした。

しかし張昭は、これを拒否。

怒った陶謙は、張昭を獄にぶち込んだ。

自分の配下にならず、言うことを聞いてもらえなかったからと言って、獄にぶち込むとか・・・。

陶謙は、ただの自己中、いや、キチ◯イやん。


次回に続く。