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孔明の天下三分の計は、本当にベストな戦略だったのか その4

孔明の天下三分の計についての記事も、これで4回目となった。

いつまで続くか分からないが、ボチボチ書いていきたい。


前回の続き。


前回、孫権の前で大胆にも、荊州の領有宣言を行った孔明であったが、

彼の思い描いた構想通りに、事態は推移していった。

孫劉連合は、赤壁の戦い曹操軍を破り、孔明の予測通り、曹操は一旦、北方へと軍を撤退させた。

その間、孫権軍は、江夏・江陵の占領に成功した。

一方の劉備軍は、武陵・長沙・桂陽・零陵の荊州南部四郡を獲得した。

劉備陣営は、荊州全てを獲得することは出来なかったが、益州攻略のための取っ掛かりとなる足場は、獲得したことになる。

その後劉備は、孫権の妹を妻に迎え、荊州北部を借用し、孔明の構想は、さらに前進した。
(赤壁の戦いにおいて、曹操の大軍を破ったのは、主に呉の陣営であったにも関わらず、荊州の土地を劉備に渡して良いのだろうかという不満が、呉の陣営内に燻り始めていたため、しばらく借りておくという形式を取った)



そして、天下三分の計を具現化するためにも、劉備陣営の次なる目標は、益州を奪うことであったが、
しかしそれを実行するためには、口実や大義名分が必要であった。



ここで、幸運なことに、

西暦211年、張魯曹操による領地への侵攻を怖れていた益州の牧・劉璋から、張魯討伐のための援軍を出して欲しいと、要請されたのである。

これはまさに、好機であった。

劉備陣営はこれで、入蜀するための大義名分を得たことになる。

西暦211年12月、劉備陣営は、入蜀を果たし、葭萌関に軍を留めた。


翌年、張魯討伐に行くと見せかけて、その矛先を転じて、成都への進撃を開始した。


この間孔明は、荊州の江陵にいた。

天下三分の計は、荊州益州の東西から、中原を挟撃しようというものであるから、孔明はここを離れるわけにはいかなかった。

軍師としてホウ統が、劉備に同行することになったが、蜀攻略の最中に、戦死してしまう。

この報を受けて孔明は、関羽に留守を預け、自らも戦線に参加し、西暦214年5月、遂に成都の攻略に成功した。

中国大陸は、孔明の構想通りに、三国鼎立時代となったのである。



次回に続く。