いぐちゆうとの雑記ブログ

いぐちゆうとの雑記ブログです。

人間関係の断捨離

どうも。

 

あれから色々考えてみたけど、やっぱり友達ではないわな。

 

昔から今までをざっと振り返ってみたが、

 

何でもかんでも否定されてきた。

 

自分の好きなYUIを否定。

 

高校生の頃に油絵で賞を取った時も、

 

『そんな絵を購入する奴誰がいるんだよ。』と否定。

 

大学生の頃に書籍を刊行した時も、

 

『どうせ趣味みたいなものだろ?』と否定。

 

俺に幹事を任せておきながら、

 

『ちゃんとまとめろよ!』と文句だけを言って、

さらには優柔不断で決断力がないと否定。

もううんざりである。

 

ずっと我慢していたけど、

 

遂に昨日、自分の中で爆発した。

 

長きに渡る積年の怨みとでも言おうか。

 

このままでは精神衛生上宜しくない。

 

そう思った俺は、

 

そいつのLINE の連絡先を削除した。

 

これで良い。

 

ちょっとスッキリした。

 

負の感情しか抱かない仲なら、

 

 

自分の手で終わらせた方が良い。

 

人間関係も『断捨離』である。

 

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 



涼しくなってきた 秋を通り越して冬の気配

どうも。

涼しい。

夜の散歩に出かけると、鈴虫が鳴いていた。

蝉の次は鈴虫だ。

蝉の生命は短い。

こうして散歩している間にも、

地中で蝉が外界へ繰り出す時を、まだかまだかと待ちわびている。

長い年月をかけてようやく地上へと繰り出したのに、そこからは短い期間の生命しかない。

耐え忍んだ生命が儚いなんて、ちょっと心がホロっとしてくる。


俺もオッサンになったのだな。



 
ところでまだ半袖で過ごしているが、

夏の気配はどこへやら。

着実に冬は近づいている。

自宅からコンビニまで車椅子を漕いで約15分。

こうして夜中に散歩していると、

無駄に楽しい。

まあ、散歩っていっても、

食料を買いに行ったり、セブン銀行の口座に入金したりするだけだ。

何の変哲もない、ただの日常。

しかし今となっては、ただの日常生活さえ愛おしい。

早くコロナが収束することを願う。



それにしても、また衣替えしなきゃな。

夏服に切り替え、ようやくちょっと落ち着いていたのに、もうこれである。

1年が過ぎるのは早い。

おしまい。




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ちょっと後悔していること

どうも。


↑これは2012年5月に俺が書いた本だ。

文芸社より刊行させて頂いたが、

あれからもう9年前になるのか。

時が過ぎるのは早いなとしみじみ感じる。


この時俺は23歳。

ちょうど刊行された5月は、腸閉塞を患って入院していた。

刊行出来て嬉しい気持ちと、

腸閉塞で食うことも出来ずに苦しんでいたのとで、

もうよく分からん複雑な気持ちでベッドで過ごしていたのを憶えている。


この本のタイトルは、

『ロリ丼 佑斗の徒然草』なのだが、

今このタイトルを見てちょっと後悔している。

編集担当者にまんまと乗せられてこのタイトルにしたのだが、

もっと別のタイトルにすれば良かった。

別にロリが好きでも何でもないのに、


ちょっと遊び半分で冒頭文に『ロリ丼』と書いてみたら、


『ロリ丼良いですよ!タイトルそれにしましょう!インパクトありますから!』と言われて、

『はぁ・・・そうですかね。』とわけわからん内に決定した感じだった。


『君綺麗だね!絶対に売れるからAV出てみない?』と口説かれたみたいな感覚がある(笑)


もうだいぶ昔の話なんで、どうせ人々の記憶の片隅にも残っていないだろうけど、ちょっと今ではタイトルを変更したいなと思っている。

わ、若気の至りだ。

そういうことにしておこう。

これって負の遺産黒歴史って奴か。



おしまい。




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なぜ毎日更新を続けるのだろうな

どうも。

ブログの毎日更新を継続し始めて、今日でなんと18日目だ。

死にそうだ。



https://yuto3594.hatenablog.com/entry/2021/08/20/083451

↑過去の自分は毎日更新が出来ないと嘆いていた。

それから比べれば奇跡だ。



毎日更新を続けたからといって、特に誰に褒められるわけでもない。

『じゃあ一体何のために継続しているのか?』

毎日更新出来なくても、

例えば1週間に1回の頻度で更新したとしても、

そのブログ記事の内容が良質で役立つものならば、勝手に読まれていくだろう。

別に毎日更新する必要が無かった、なんてことも起こり得る。

『どこまで更新記録を伸ばせるかな?』みたいなチャレンジ要素であり、遊び要素的なものに思えてくる。

毎日更新自体の目的が霞みそうだが、

はっきりと言えることは、

自分自身が三日坊主ではないことは既に証明出来ている。



毎日更新を続けている人の中には、

誰にも読まれずに淡々とゴミ記事を大量生産していて、

『何のために毎日更新してるの?可哀想に。』と言われる人がいるかもしれない。

己の文章力の向上のため。

備忘録がわりのため。

どこまで継続出来るか自分の限界を知りたいため。

暇つぶしのため。 



毎日更新を続ける理由は、書く人によって異なるだろう。



俺は・・・分からん(笑)



書きたくなっているから書いているとしか言えん。

なんで書くんだろうな。

『そこに山があったから。』と答えた人がいたが、


『書きたいと思ったから。』としか表現出来ん。 

理由が分からんなんて未熟だ。

ただ言えることは、

己の内なる声に従っているだけだ。


おしまい。


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『内容の薄い記事』ってなんだ

どうも。 

ブログで内容の薄い記事がある。

それは水で物凄く希釈したコーラみたいなものか。

『こんな薄いコーラ、コーラじゃない!責任者を呼べ!』と怒りだす人もいるかもしれん。


そもそも、内容の薄い記事ってどういう感じだろうか。


『今日は夕日を眺めました。とっても綺麗です❤️』という1文に、夕日の写真を1枚添えてあるだけのブログ記事か。

いや文章はともかく、

綺麗な夕日の写真が添えてあるなら、

それだけで価値があるようにも思えてくる。


『夕日』自体にパワーがあるし、

それを眺めて綺麗だと思う人は、

およそ全世界の人口の8割ぐらい存在するのではないだろうか。

『とても感動しました。この夕日が見える場所に行きたいです。』と思う人が現れても不思議ではない。

誰かの心を動かしたなら、それは内容の薄い記事ではない。


ならこれならどうだ。

『今日はお昼ごはんにパスタを食べました。とても美味しかったです❤️』という1文に、美味しそうな明太子パスタの写真が1枚添えてあるだけのブログ記事だ。

おお、これなら内容の薄いありきたりなブログ記事に思えてくる。

しかしちょっと待て。

数あるランチのメニューから、その人は『明太子パスタ』を選択したのだ。

カレーやうどん、ラーメンに寿司だってなんだってあるのに、その人は『明太子パスタ』なのである。

全世界の同月同日同時刻に、

ランチに『明太子パスタ』を選択した人は、果たして何人いるのだろうか?

0ではないと思うが、数は絞られてくる。

しかも上記の2つの文末には、

❤️が添えられているのである。



ブログ記事の文末に❤️だぞ。

誰が見てるか分からないのに、❤️をつける勇気。

まずはそこを褒めるべきだ。

❤️を添える人は果たして何人いるだろうか。

それにそのパスタが美味しそうに見えて、

『どこのお店ですか?私も行きたいです!』と思う人も現れるかもしれないのだ。

パスタの情報を求めている人にとっては、十分有益な情報になり得る。

誰かにとっての有益な情報になり得るなら、その記事は決して薄くはない。




気付いてしまった。

ブログの内容自体が薄いのではない。

ブログを読む側見る側が、

『景色』や『ランチ』というだけで、

勝手に薄い内容だと判断しているのだ。

それに、ブログを読む側見る側の捉える力や解像度、発想力がヘボいとも言える。

一瞬ありきたりでどこにでもありそうなブログ記事。

最初はそう思えるかもしれない。

しかしよくよく目を凝らして注意深く見ていくと、

全然ありきたりなブログ記事ではないのかもしれない。

『内容の薄い記事を連発するんじゃねぇよ!』と批判されていた人はどうかこれからは安心して欲しい。

今後は読む側見る側の問題で、

『お前たちがこちら側のレベルについていけてないだけだ!』と言い返せば良いのである。




(追伸)

小学生でも書けるような普通の
『ランチ』のブログ記事をアップしてんじゃねぇよ!

頑張って擁護してみたけど、やっぱり内容が薄いんだよ!

まぁ、その人のブログなんだから、自由なんだけどね。

おしまい。

無限

どうも。

読みたい本に見たい動画、

それに他の人が書いたブログ記事。

多過ぎる。

日々たまっていって、もはや人生の時間が足りん。

活字と動画の洪水に溺れる。

幸せなことだ。


タイトルや冒頭文、それにまとめの部分をちょろっと読んでから、

『これは面白そうだ。』と感じる記事は、一旦『はてブ』しておく。

後で読み直したりも出来るので便利だ。


家の中でも積ん読状態の本を1冊ずつコツコツ読んだり、

『後で見るに保存』してある動画を1つずつ見たりしていく。

1つずつ消化していくしかないのだが、

気に入ったものは後で何回も読んだり見たりしてしまうので、やっぱり遅々として進まない。

ナポレオンがゲーテの本を何度も読んだというけど、その気持ちは分かる。

良本は何度読んでも新鮮な印象を受ける。

そして新しい発見がある。


これだけでも人生無限に楽しめそうだ。

あ、あとゲームもあるな。

普段から遊びたいゲームに『目星』をつけておき、

スマホの下書き保存にメモしている。

ドラクエシリーズ全部やるとか、FFシリーズ全部やるとか、テイルズシリーズ全部やるとか、三国志のシュミレーションシリーズ全部やるとか。

ちょっと自分の中でシリーズものは制覇したいなという欲がある。

まあ、これだけでも終わらん。
 
幸せなことよ。

人ってこういうものを見つけられた時がマジで幸せなことだと感じる。

対象は何でも良いと思うけど、1つ見つけられたら死ぬまで遊べる。

人生はそれで良い。

おしまい。








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読書のデメリットとその対策案 その2


どうも。

前回の続きである。

読書のデメリットとその対策案について自分なりにまとめてみた。
 

☆読書は著者の思考をそのままなぞるだけであり、自分の頭で考えなくなるのでは?

→確かにそういう面もあると思う。

ショーペンハウアーだってそう言ってた。

個人的には著者に向かってツッコミを入れたり、色々ネチネチ言いながら読んでいる。


『いやあんたはそう言うけど、それはこういう理由で違うと思うよ?』とか、

『その浅い思考なんやねん。事実やデータをちゃんと示せよ。』とか言いながらボヤくようにして読んでいる。

アホな自分の代わりに著者が考えてくれていることに敬意を払いつつも、

『なんでやねん!』と批評しながら読んでいくのが自分の頭で考えるきっかけになる。


著者の思考を全部鵜呑みにせず、


『そういう考え方もあるよね!』と言いながら、思考する時の判断材料にしていくのが良い。

読むのと思考するのはセットだ。



☆著書にあるメソッドや型通りに行えば、自分なりの独自性が失われるのではないか?

→成果を最短で求めるなら、

その道のプロである著者の思考をそのままなぞり、お手本にして極力真似していくのが良い。


我流で自分の思考だけだと、

時間をロスすることがあるかもしれないからだ。 

『効率』の観点からは有効なのだ。 



但しそのまま全てを模倣すれば、

最短距離は走れるが、

同時に独自性も失われることはある。

ある本から得た知識Aとある本から得た知識Bを組み合わせてみたらどうなるかと考えてみる。

読んだもの対して、

改善の余地はないだろうかと考えてみる。


まずは良書で『型』を習い、

そこから意識的に『型』を破っていくのが良いのかなと。




☆著者の影響を受けて偏った思考にならないか?

→深く傾倒し過ぎるが故に、その危険性も孕んでいる。  

でもこの世には、

『完璧な著書など存在しない』と思いながら読んでいく方が良いかもしれない。


やはり誰か1人の著書だけでなく、

他の著者が書いた本も広く読むことだろな。

例えば同じジャンルの分野でも、

5人ぐらいピックアップして読むだとか。

また、その著者とは反対の意見を書いてる本を意識的に選択して読むだとか。


偏った思考を防ぐためには、  

色んな人の話を聞くのが重要だと感じる。


もしくは普段読まない分野の本をあえて選んで読んでみるとか。

そうやって自分で意識的に、

雑多なジャンルを横断的に読み進め、

偏った思考にならないように注意していくのが良いかも。


影響を受けてしまうぐらいの著書って、言葉のゲリラ豪雨みたいに強烈なものが多いだろうから、怖いよなと感じる時もある。 

読む人によっては、

毒にも薬にもなるのだから。




おしまい。