どうも。
自分の既往歴を眺めていたら、高校1年が15年前であることに気付いた。
月日の流れは早いものである。
最近は予定が埋まりまくっているため、ブログの更新がなかなか出来ない。
しかし今日は、完全に1日オフであるので、こうしてブログを書いている。
嬉しい。
何をして時を過ごそうか。
オフの日には、洗濯をしたり、書籍を読んだり、音楽を鑑賞したり、DVDを観たり、将棋を勉強したり、絵を描いたり、ブログを書いたり、散歩に出掛けたりして、時を過ごしている。
自分自身ではもの凄く楽しんでいるのだが、
「じじいみたい。」とか言われる。(やかましいわ、ほっとけやw)
出来ればずっと、書を読み、文章を書いたりなんかして、時を過ごしていたい。
が、やるべきことも多いため、こういう自分の時間をいかに捻出するか、それに頭を使っているところだ。
まあ、でも本当は、人間の最終的な人生のゴールは死ぬことであるので、何ひとつやるべきことなんて存在しないのだけどね。
そんなことはとっくの昔から知っているし、タモさんもそう言っていた。(タモさんが言うなら間違いない)
死ぬことが最終的なゴールなので、人間の人生自体は無意味なものだ。
だから本当は、何もしなくても良いのだけど、
何もしなければそれはそれで、生きている限りは、多分苦痛になってくる。
何か暇潰し出来ることはないかと、きっと探し始めるだろう。
その上、忙しい時には暇を求めるくせに、暇な時には忙しさを求めるのだ。
人間って思うに、常に相反することを抱えながら生きているのだと思う。
俺も「暇だなー。」とか思っていたのだけど、
いざこうして忙しくなってくると、今度は逆に、
「暇になりたいなー。」とか言ってるからなw
「人間は自由の刑に処されている」
これはサルトルさんの言葉だが、まさにこの通りで、死ぬまでの間はずっと、
自由という名の刑に処されている。
人生自体は無意味なものだが、無意味だからこそ、勝手に自分自身の人生に、意味を与えても良いのだ。
「死ぬまでの間、俺はこうして生きる!」
「俺の人生の意味はこれだ!」ってね。
そうやって勝手に自分の人生に意味を与えておいて、死ぬまでの間、適当に暇潰ししておけば良いのだと思う。
趣味も仕事も、暇潰しの一環よ。
死ぬまでの間、何をしてもいいし、何をしなくても良い。
それこそ本当に自由なんだけど、自由だからこそ、漠然と不安感や迷いが生じてくる時もあるのだろう。
人間の価値、人間の人生は大したことないし、そんなに大それたものではないのだから、
適当に自分らしく生きれば良い。
おしまい。