どうも。
主に三国志について書くとか言っておきながら、最近は全然書いてなかった。
今日も三国志とは違うことを書く。
俺は車椅子常用だ。
このブログを継続して見ている人は、もうすでに分かっていることだと思う。
で、外出した時に電車やバスなどの公共交通機関を利用すると、駅員さんやバスの運転手さんに介助してもらうことになる。
そのシーンに限らず、あらゆるところで助けてもらう機会が多いが、本当は誰かのことを助けたいという気持ちが強い人間だ。
じじいやばばあになった年寄りが、
人に助けてもらうばかりで嫌だと言っていたが、あの気持ちは凄く分かる。
きっと俺も、それと同じようなものだ。
根っこの部分で、
「奉仕欲」や「誰かに頼られたい」という欲が強いのかもしれない。
だから介助してもらった日には、
必ずコンビニの募金箱に、お金を寄付している。
自分の出来ることを行って、一方的に助けられるのではなく、これでトントンにしようという魂胆だ。
普段助けてもらうことが多い分、そうやって助ける側、役に立とうとする側に回りたい。
そういう欲が強い。
助けられっぱなしだと、なんかムズムズして気持ち悪いのだ。
デート代の支払いに関して、
男性に対して借りを作りたくないという女性がいるが、あれと似たようなものかもしれない。
もしかしたら俺みたいに、普段助けてもらうことが多いけど、実は心のなかで、
「奉仕欲」なるものを燻らせている身体障害者は、世の中、案外多いのではないだろうか。
また、学校の教科書なんかを見ていても、
「身体障害者の方が困っていたら、積極的にお手伝いしましょう。」と書かれていることが多い。
これはとても有難いことだが、
「社会貢献」や「社会奉仕」に対して関心を強く持ち、いわゆる「奉仕精神」のある身体障害者もいることを、どうか忘れないで頂きたい。
世の中、本当に色んな身体障害者がいる。
健常者と同じで、善人もいれば悪人もいるのだが、「身体障害者」=「ずっと助けられてばかりの人」だとか、「身体障害者」=「聖人君子」だとか、
そういうイメージが独り歩きしている印象がある。
そうではない身体障害者もいるのだ。
まあ、乙武さんの一件で、
「身体障害者=聖人君子説」みたいな都市伝説は、だいぶ崩壊したと思うがw
もちろん、障害の有無に限らず、助けられた時はちゃんとありがとうと感謝すべきだが、
身体障害者自身も、ずっと人に助けられてばかりでもいけないのではないか。
個人的にそう思う。
高校時代の担任であった東野先生は、こう言っていた。
「クラスメイトが、井口の階段の昇り降りを手伝う。それにたいして井口が、授業のノートを見せてやる。お互いに助け合って生活出来たらいいね。」
未だに覚えているのだから、よほど印象的だったのだろう。
お互いに助け合う社会の構築。
俺もそれは理想的で、大変素晴らしい考えだと思う。
冗談まじりで俺の友人たちが、
「階段の昇り降りを手伝っただけで、井口の授業のノートを見ることが出来るの?マジで?授業中ずっと寝ていたから、俺も見せて欲しい。」だとか、
「井口が真面目にノートを取った時間と、階段の昇り降りを手伝った時間。全然対等ではないし、割りに合わんやろ。せめて1000円ぐらい貰っても良いぐらい。」だとか言っていたw
今後も社会の構成員の一員として、その片翼を少しでも担っていたい。
きっと俺は、過去世から脈々と伝わる悪しき業を受け継いでいると思うので、現世にてしっかりと徳を積み、そして華麗に死にたい。
ここまで話が長くなったが、
「奉仕欲」の強い身体障害者も存在しているということである。
また、健常者や障害者の垣根を越えて、
お互いに人間として、助け合えたら理想的だなという話であった。
おしまい。