どうも。
時々だが、死にたくなる。
しかし実際に、死ぬための行動はしていない。
自分の脳内で考えるだけだ。
そのような考えがもたげてきたら、わざとトイレに行ったり、コーヒーを作ったりする。
何か作業を行って、「死」を避けようとするのは、まだこの世で生きていたいと思うからだろうか。
死にたいという気持ちと、まだ生きていたいという気持ち。
脳内で死について考えだすと、この2つがいつもぶつかりあう。
なぜ時々死にたいと思うのか。
それは自分でもよく分からない。
「身体障害者」として人生を生きているからだろうか。
そうかもしれない。
だがそれが、「決定打」ではない。
身体障害者として生きることが辛いのか。
もちろん辛い時もあるが、辛いというよりも、疲れたの方がしっくりくる。
同時に、健常者への羨ましい気持ちがわく。
いいなと純粋に思う。
羨ましすぎるから、どの健常者も不健康になれとか考えてしまう。
いけないことだ。
俺は、知的障害もなければ、精神障害もない。
身体障害のみだ。
この身体障害のみという境遇こそが、苦しさを生み出しているのかもしれない。
見た目は車椅子に乗っているので身体障害者だが、心は健常者だ。
両方の気持ちや立場が分かってしまう。
これは武器とも言えるし、デメリットとも言える。
自分を客観視出来てしまうなんて、残酷そのものだ。
分からない方が良かったのかもしれない。
分からない方が、どれほど楽で幸せだろうか。
世間では普通に、俺は「身体障害者」として分類されるのだろう。
しかし自分のなかでは、どちらにも属してはいない。
中途半端で、曖昧だ。
白とも黒ともつかず、
ここに明確なアイデンティティーは、存在しない。
あるのはただ、どちらにも属さないという、
「息苦しさ」だけである。
万歳、喜べ。
これこそまさに、「生き地獄」ではないか。
悲しみなんか、とっくの昔に通り越した。
流す涙も枯れ果てた。
自分のこの境遇に対して、鼻で笑っておいてやろう。
文章を書くことで、このじめじめとした陰湿な気持ちが、幾分かはマシになる。
本質的に消え失せることはないが、一時だけは希釈出来る。
書いても全ては晴れやしないが、書かないよりかはまだマシだ。
書くことでしか晴らせないなんて、とても痛々しい。
書くことは、己のどうしようも変えようがない部分に、光を当てることだから、この行為には痛みを伴う。
現実を再認識させられ、苦しみもがく。
もがいたところで、どうすることも出来ない。
自ら人生を降りない限り、結局のところ、
「身体障害者」として生きることを、受け入れていくしかないのである。
出来ることなら自分の人生のリセットボタンが欲しい。
多くは望まないが、今度もし人間に生まれることが出来るのなら、心身共に健康な「健常者」として生まれてみたい。
この願いは、現世では叶いそうもない。
こんな境遇に生まれるなんて、一体俺が何をしたというのだ。
もしかして、過去世で何かやらかしたので、その天罰なのか。
他人に奉仕しまくって、現世で徳を積み、過去の罪を償ったり、まとわりつく全ての業を浄化しろ。
そう言われているのか。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
なぜ俺は、「身体障害者」として生きているのだろうか。
分からない。
分からないが、今までこうして生きてきた。
これから後、俺はどのくらい生きるのだろうか。
おしまい。
(追記)
この記事を書いていた時は、精神状態がどん底だった。
2021年3月9日(火)時点では普通。
もう3年も経過しているのか。
早いなー。