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孔明の天下三分の計は、本当にベストな戦略だったのか その5

前回の続き。

西暦211年。

劉備は、劉璋からの援軍要請を受けて入蜀を果たしたが、すぐに蜀攻略を行ってはおらず、およそ3年という年月を、空費している。

これはなぜか。

それは、益州の牧であった劉璋が、劉備と同じ劉氏の一族だったからである。

曹操孫権に比べ、己の確固たる基盤を持たない劉備にとって、漢室再興を掲げ、これを主張することこそが、最大の武器であり、正義の旗印であった。

それなのに、同族の土地を奪うことは、そこに矛盾が生じてしまい、己の正統性が崩れ、今まで歩んできた道を、全否定してしまうことにもなりかねなかった。

矛盾したことを行えば、せっかく今まで築いてきた民衆や豪族からの劉備への信頼感が、ガラガラと崩れて去ってしまうのではないか。

ここに、劉備の躊躇いと危機感があったからこそ、入蜀してからすぐには攻略せず、3年も空費したのだろう。

また、穿った見方をすれば、

「仁者劉備」のイメージを、少しでも損わないようにするために、わざとここで、躊躇っておいた。

そう見ることも出来る。



確かに、孔明の天下三分の計は、劉備に生き残る道を示した。

はっきり言うが、劉備が生き残る唯一の道だと言っても過言ではないだろう。

最後のラストチャンスを、劉備に与えた孔明は素晴らしいが、この同族問題という点を見るに、「仁者」というイメージで名を売っていた劉備にとっては、益州攻略のために、裏切りの戦をせねばならず、諸刃の部分も、少なからず存在していたということだ。

次回に続く。