前回の続き。
西暦211年。
劉備は、劉璋からの援軍要請を受けて入蜀を果たしたが、すぐに蜀攻略を行ってはおらず、およそ3年という年月を、空費している。
これはなぜか。
それは、益州の牧であった劉璋が、劉備と同じ劉氏の一族だったからである。
曹操や孫権に比べ、己の確固たる基盤を持たない劉備にとって、漢室再興を掲げ、これを主張することこそが、最大の武器であり、正義の旗印であった。
それなのに、同族の土地を奪うことは、そこに矛盾が生じてしまい、己の正統性が崩れ、今まで歩んできた道を、全否定してしまうことにもなりかねなかった。
矛盾したことを行えば、せっかく今まで築いてきた民衆や豪族からの劉備への信頼感が、ガラガラと崩れて去ってしまうのではないか。
ここに、劉備の躊躇いと危機感があったからこそ、入蜀してからすぐには攻略せず、3年も空費したのだろう。
また、穿った見方をすれば、
「仁者劉備」のイメージを、少しでも損わないようにするために、わざとここで、躊躇っておいた。
そう見ることも出来る。
はっきり言うが、劉備が生き残る唯一の道だと言っても過言ではないだろう。
最後のラストチャンスを、劉備に与えた孔明は素晴らしいが、この同族問題という点を見るに、「仁者」というイメージで名を売っていた劉備にとっては、益州攻略のために、裏切りの戦をせねばならず、諸刃の部分も、少なからず存在していたということだ。
次回に続く。