いぐちゆうとの雑記ブログ

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特に何もしなかったGW ひとりで過ごすことが好き

どうも。


今年のGWは、特に何もしなかった。


4月29日の夜中3時頃にデリヘルをLINEで頼み、それから朝方の5時にラブホに向かい、いつも仲良くしてもらっているデリヘル嬢に会ったぐらいだ。(デリカノ)

あとはそれからずっと、自宅で動画閲覧したり、ゲームばかりしていた。

(動画は、うどん演義堂本剛の正直しんどいばかり見ていた)


遊ぶ相手もいないし、どうせ外に出掛けてもどこもかしこも人だらけで疲れるだけだ。

自宅で自分の好きなことをしている方が、断然癒されるわけである。

外出するのが嫌いなわけではない。

連休中の人だかりが嫌いなだけである。

皆が連休中に外出している時は、俺は自宅で遊ぶ。

皆が仕事をしている時は、逆に外出して遊んでやることの方が、どれだけ気持ちが良いことか。

それに何と言っても、外出する前の準備がめんどくさい。(特に風呂)

GW中に改めて分かったことは、基本的にひとりで過ごすことが好きだということだ。

ひとり暮らしをしていると、気楽さと寂しさが交互に襲ってくるよなと懇意にしているデリヘル嬢に話したら、



「それめっちゃ分かるー!」と共感された。



「外出するのは嫌いではないけど、どちらかというとインドア系の人。一緒に住むなら、お互いに別々の部屋があって、自分の自由な時間も確保されている。」

こういう人ならうまくいくと彼女は言っていたが、それには大いに共感出来るし、まさに俺もそんな感じである。
(あのデリヘル嬢、俺と同じにおいがする)


インドアよりだが、そのくせ体育会系の人と仲良くなることが多いw






(追伸)

コーヒー飲みながら動画閲覧とゲーム→トイレに行く→コーヒー飲みながら動画閲覧とゲーム→トイレに行く→コーヒー飲みながら動画閲覧とゲーム→トイレに行く→コーヒー飲みながら動画閲覧とゲーム→トイレに行く→コーヒー飲みながら動画閲覧とゲーム→トイレに行く→コーヒー飲みながら動画閲覧とゲーム→以下ループ

おしまい。

依存されたりすると嬉しい俺がいる

どうも。

仕事のストレスから、物を大量に購入する。

靴とかバッグとか。

そして、

「お金をもっと稼がないと生活費がヤバい!」とかなんとか言って、また仕事をしてストレスを溜め込む。

溜め込んだストレスの捌け口として、また買い物をしまくる。


これはデリヘル嬢やキャバ嬢のよくある話だが、同じことを繰り返すあのラットレース、どうにかならんものなのか。


まあ、自分で稼いだお金だから、何に使っても良いし、買い物するのは別に良いのだが、それで生活費のことを考えずに、バンバン買い物するのはどうかなと思う。



「収入から真っ先に生活費を差し引いて、残りのお金で買い物しなさい。」と、まるで父親みたいに言いたくなる。

心配してこういうことを言ったら、もの凄くなつかれて、俺の家にまでやって来る。

俺はまだ子どももいないし、父親じゃないのだけど、お前ら父性や父親の愛を求めているのか。

最近強く感じるのは、いわゆるメンヘラや寂しがり屋に好かれる率が、結構高いということだ。

ずっと相手の日頃の不平不満や愚痴を聴いて、

「大丈夫か?俺はお前のことが心配だわ。」と思って接していたら、いつの間にか好かれており、ひとり暮らししている自宅にまでやってくる。

わりと不平不満や愚痴を聴くのも苦にならない俺だから、そこは別になんともない。

しかもちょっとたちが悪いのは、依存されたり、頼られたりすると、もの凄く嬉しいとか思ってしまう俺がいる。


車椅子ユーザーだと助けられることが多く、その反動のせいなのかどうかは分からんが、他人に頼られたりすると結構嬉しい。

「しょうがない奴だな・・・。」とか思いながら、

相手のことをヨシヨシ(i_i)\(^_^)してしまう俺がいる。


(追伸)

母親に、

バーテンダーとかホストに向いてるな。」とか言われたw




おしまい。

気楽さと寂しさの狭間で

どうも。

昨日懇意にしているデリヘル嬢と話していたのだが、

「ひとり暮らしは気楽で快適だけど、ふとした時に寂しくなるよね」と。


ひとり暮らしをしていると、よくある話だ。

気楽さと寂しさは、いつもセットで存在している。



気楽だけど、寂しい。

寂しいけど、気楽。

寂しい、気楽、寂しい、気楽・・・。



この間を行ったり来たりする。

気楽さと寂しさを比べて、

寂しさの方が比重を多く占めた時、

人はシェアハウスに住んだり、同棲したり、結婚したりするのだろうか。(そういう決断を下すのだろうか)

もし結婚するなら、寂しさを埋めるためにするのではなくて、本当に愛し合える人と結婚したい。

それが理想的ではある。

しかし結婚自体が、寂しさを埋めるために機能しているという点も、否定は出来ない。


「愛し合える仲で、尚且つ寂しさを埋められたら最高だよ。一石二鳥だよ。」ってか。

まあ、そりゃそうだ。



(追伸)

「寂しい時は俺の文章を読んで下さい。貴方の寂しさが、増幅してしまうかもしれませんが、もし少しでも忘れることが出来たなら、書き手として幸いです。」


「そうだ。共感し合える者同士、あのデリヘル嬢と結婚しよう。」



おしまい。

人と会って別れた直後の寂しさ あれは何度味わっても切ない 寂しさと向き合える大人になりたい

どうも。


会いたい人に会って、別れ際と別れた直後と、自宅に到着した時がクソ寂しい。

ヤバい。

あれはヤバ過ぎる。

会ってその人と話している最中でさえも、もう別れ際のことを考えていたりする。

「今この瞬間は楽しいけど、どうせまた後で寂しくなるんだろう?」とか思っていたりするのだ。


もちろん今より若い時も、こんな感情を抱くことはあったが、それにしても、それが年々強くなっている気がする。


普段ひとり暮らしをしているせいなのか、それとも年齢を重ねて段々と弱くなっているのか。

それはよく分からないが、会いたいと思っていた人に会えた時の喜びと、別れた後の寂しさは、あれは何度味わっても切ない。


「寂しさには多忙が1番だ。」というセリフを何度も聞いたことがある。

その通りなんだけど、あえて自分で用事を作ったり、家事をこなしたりして、意識的にわざと忙しく
していると、

「あ、俺は今寂しいと思っているんだな。だからあえて多忙にしているのか。そうなのか・・・。」と寂しい自分を確認出来てしまうので、その時はちょっと苦笑してしまう。



「寂しさを埋めるためにわざと多忙にするなんて・・・。」と他人に思われそうだけど、案外俺と同じような人っているんじゃないだろうか。

別の何かをしておかなければ、この身がもたない。

寂しさで押し潰されそうになる。


動画閲覧、アニメ・マンガ、読書。

このあたりは、寂しさを埋めるために行うものとして、わりと上位にくるんじゃないだろうか。

今まで何度もこいつらに助けられてきた。

だが、だがである。


こいつらでさえもかき消すことの出来ないぐらいの寂しさレベルの時がヤバい。

本当にヤバい。



寂しさをかき消すために、わざと動画閲覧した際、

恥ずかしい話だが、あまりの寂しさに、その動画の内容が全然頭に入ってこなくて、無意識にポロリと涙をひとつこぼした時があるw

読書もしかりで、これを読んで寂しさを紛らわせようと思って読み始めたのに、全然本の内容が頭に入ってこなくて、会った人のことを思い出して、ポロリと涙をひとつこぼした時もあるw



そうだ。

埋めることの出来るレベルなら良いのだ。

問題は、

別の何かをしていても埋めることの出来ないぐらいの寂しさが襲ってきた時だ。

その時は相当ヤバい。



もう諦めて、素直にその寂しい自分を認めて受け入れるしかない。(諦めて寝るしかない)

「この寂しささえも愛しいわ!」

そんな風に思えるぐらいの大人になりたい。

精神的に強くなりたい。


貝になりたい。




おしまい。



(追記)

☆2021年3月20日(土)

今日も歯痛と左膝の怪我に見舞われている。


日常生活を送ることが出来るという喜び

どうも。

10代の頃は、何もかもが新しい経験だった。

当たり前だ。

人生自体が一周目だからだ。

意識的に新しいことをせずとも、毎日が刺激的で、それなりに満足に過ごせた。


小学生の頃なんて、公園で友達と遊ぶだけで、それだけで満足していたからな。

それがいつからか、友達と遊ぶ時でさえも、お金を消費して遊ぶようになっていったのだから、成長って怖いものだ。

その分、行動範囲も広がり、遊びの選択肢も増えていったのだが、見事に気付かぬ内に、資本主義の仕組みに浸かっていったのだと思うと、恐ろしくなってくる。

そして二十代に突入してくると、人生自体が2周目なので、その新鮮味が少しずつ失われていき、自分で意識的に毎日新しいことをせねばならなくなってきた。



「毎日新しいことをせねばならない!」とか思いながらずっと生きていると、なんかそのこと自体に疲れが生じてきた。

人生自体は短いものだし、有意義な毎日を過ごしていかねばあっという間に死ぬぞと周囲の声に急かされ、毎日新しいことをどんどんしていかねば!と焦燥感にも似たような気持ちが、いつしか自分自身を苦しめていくようになった。

だから今はほどほどに、自分自身が疲れてしまわない程度に、新しいことをしていくことにした。

無理をせず、自分自身に時たま与えていくことの方が、より長く、この人生を楽しめる。

そんな風に思った。

新しいことをしていかねばならないという考えが、いつしか義務感みたいに化けて、それが自分自身を苦しめていったなんて、そんなの笑うしかないではないか。



でも最近では、

いつもの変わらぬ日常生活を送ることが出来ることに感謝の心を持ち、その喜びを噛み締めながらも、無理しない程度に、時たま新しいことをしていく。


これぐらいのスタンスの方が、自然体で穏やかに生きていくことが出来るのかもしれないなと、

そんな風に感じる三十路前なのであった。

おしまい。

どのペットを飼育しようかとあれこれと考えていたら、身動きがとれなくなってしまったんだが

どうも。

最近、どのペットを飼育しようか迷っている。



出来れば寿命が長く、なついてくれるものがいい。




今のところの候補は、


オカヤドカリ、ウーパールーパー、ジャンガリアンハムスター、キンクマハムスターあたりである。


それぞれのデメリットを挙げていくならば、

ハムスターは、そんなに寿命が長くない。



ウーパールーパーとオカヤドカリは寿命が長いが、オカヤドカリは色々食べるので、献立を考えるのがわりと面倒だ。

ウーパールーパーは大きくなると、でかい水槽が必要になる。

うーむ。

何を飼育したとしても、一長一短であろう。



また、寿命の面だけを考えると、普通にカメや鯉でも飼育してろと言われそうだが、飼いたいかと聞かれればそうでもない。

寿命の長いイグアナとかも考えたが、腕などを引っかかれるのは困りものだ。




迷う。


しかも飼育する前から、ペットが死ぬ時のことを考えてしまっている。


「あんなに一緒に楽しく過ごしてきたのに、死んでしまった。とても悲しい。」とか思っているのである。

飼育する前から「死」について考えてしまうと、飼育すること自体が出来なくなりそうだが、

でも個人的には、この考え方って大事なのではないかと思っている。

やっぱり命ある生き物なのだから、いつかは死が訪れる。


予め飼育する前から、死ぬことへの心構えをしておき、死んでしまった時のことを想定しておくことは必要だと思う。




飼育すれば、きっと楽しい時間や癒しを提供してくれるだろうが、


そもそも飼育すること自体が人間のエゴで、野生の方が幸福なのかなとか思ってしまい、色々考えを巡らせていると、身動きがとれなくなってしまった。

「人間が快適な住環境や食事を提供してやっているのならば、別にそれは考えなくてもいいだろう。」という意見もネット上に見られたが、そういう考え方をしていること自体が、エゴだったりするのかもしれないとか思ってしまった。


もちろん野生にいる時よりも、良い住環境や食事を整えることが出来れば1番良いことだが、それは結構難しい話だ。

それは痛感している。



また逆に、野生にいる時よりも劣悪な住環境を提供してしまったならば、飼育されていること自体が可哀想だという話になる。


こんなことを考えてしまうタイプの人間には、ペットを飼育すること自体が困難になってくるではないか。(何も考えていない人間の方が容易く飼育出来る)


飼育すること自体が人間のエゴであることは分かっているのだが、飼育してみたいなと思う自分もいるので、困った話である。


やはり俺という人間は、いつも矛盾した考えを同時に思いついてしまうようである。

「賢い人間ほど、矛盾した考えを同時に想定することが出来るんだよ。だからいつもその人の心の中で、2つの考え方がせめぎあっているんだ。」という言葉をかけてもらったことがあるが、確かにそれはその通りだと思うが、こういうタイプの人間は、「アホで行動的な人間」に一歩先をリードされることがあると思う。


色々考えずに、自分のやりたいことをすぐに実行出来れば1番良い話だけど・・・。



ネチネチ考えてから行動を起こすタイプの人間のメリットとしては、やはりメリットとデメリットを炙りだして、最良の選択肢を発見することが出来るという点にあると思われる。


アホで行動的な人間は、その行動スピードには称賛すべきものがあるが、早合点や失敗も多いからな。


どちらが良いという話ではない。

やはりそれぞれ一長一短なのだ。


一体何を話しているのかワケワカメ状態になってきたので、この辺りでおひらきとする。



(追伸)

「寿命が長くてなついてくれるペット」を飼いたいとか思っていること自体がエゴそのものである。


また、エゴだと分かっていても、やはり飼いたいという気持ちがある。


そしてこの考え方自体も、またエゴである。




おしまい。

100記事目

どうも。

遂にこの記事が、100記事目である。


自分で自分を褒めてやりたい。


個人的に、ここまでくるのに長かった。

多忙だったり、体力的にしんどくて余力がなかったり、単純に書きたい気分ではない日もあった。


紆余曲折ありながらも、こうして100記事目に到達したことは感慨深い。

今後とも自分のペースで書いていこうと思う。

(追伸)

いつも読んで下さる方々、ありがとうございます
(^-^)/

おしまい。