いぐちゆうとの雑記ブログ

いぐちゆうとの雑記ブログです。

購入した服

どうも。


服を購入した。


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↑妙に惹かれたので購入した。

きっとこのシャツを着て外出したら、

怖い人たちに絡まれて、

「おい、兄ちゃんもファイターか?実力見せてみぃ!」


とか言われて、ボコボコにされるに違いない。


そう、欲しいのは勝利だけだ。




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こちらはTKのジャケットだ。

TKの服は可愛いので、とても好きだ。


普段なら、実際に店に行って購入するのだが、これはメルカリで購入した。


ページを適当に見て購入したため、LサイズではなくMサイズだったということに、受け取ってから気付いた。

俺は無駄に肩幅はあるので、やはりLサイズは欲しいところだ。

これは少しだけ、窮屈な着心地である。


あーーーーーーーーー!!

購入したのは紛れもなく自分自身だ。

他の誰のせいでもないし、自業自得なのは分かっている。

タイムマシーンに乗って過去の自分を殴り飛ばしたい。

おしまい。

物件の内覧

どうも。

引っ越ししようと思う。

だから今日は朝から、不動産会社のスタッフさんと一緒に、物件の内覧に行ってきた。


玄関前に段差が2段あった。

車椅子を駐輪場の端にとめておき、車椅子から降りて、何とか自力で昇れた。


物凄く部屋のなかも綺麗だし、オーナーさんも良い人なので、そこに決めようと思う。


荷づくりなど、諸々の作業を伴うからちょっとしんどいけど、今から楽しみだ。



(追伸)

遂に読者数が「5」になりました。

書籍の出版経験があって、現在も印税をもらっていますが、ブログに関する事柄に対しては素人同然です。

正直、デザインの変更もままならないぐらい疎いです。

そんな中、どうすればもっと読者が増えるのかとネット検索していたら、


「継続して良記事を書いていたら、読者は勝手に増える。」という有難い言葉に辿り着きました。

「そんなこと知ってるわ!もっと具体的な手法を教えてくれや!」と思わずツッコミをいれてしまいましたが、きっとそれが真理なんでしょうね。

毎日の更新は無理ですが、今後も自分のペースで書いていきたいと思います。


読者登録をして下さった方、「スター」をつけて下さった方、本当にありがとうございました☺️

拙い文章ですが、今後とも宜しくお願いします。



おしまい。

「奉仕欲」を燻らせている身体障害者

どうも。

主に三国志について書くとか言っておきながら、最近は全然書いてなかった。

今日も三国志とは違うことを書く。


俺は車椅子常用だ。


このブログを継続して見ている人は、もうすでに分かっていることだと思う。


で、外出した時に電車やバスなどの公共交通機関を利用すると、駅員さんやバスの運転手さんに介助してもらうことになる。

そのシーンに限らず、あらゆるところで助けてもらう機会が多いが、本当は誰かのことを助けたいという気持ちが強い人間だ。


じじいやばばあになった年寄りが、

人に助けてもらうばかりで嫌だと言っていたが、あの気持ちは凄く分かる。

きっと俺も、それと同じようなものだ。


根っこの部分で、

「奉仕欲」や「誰かに頼られたい」という欲が強いのかもしれない。

だから介助してもらった日には、

必ずコンビニの募金箱に、お金を寄付している。

自分の出来ることを行って、一方的に助けられるのではなく、これでトントンにしようという魂胆だ。


普段助けてもらうことが多い分、そうやって助ける側、役に立とうとする側に回りたい。

そういう欲が強い。

助けられっぱなしだと、なんかムズムズして気持ち悪いのだ。

デート代の支払いに関して、

男性に対して借りを作りたくないという女性がいるが、あれと似たようなものかもしれない。



もしかしたら俺みたいに、普段助けてもらうことが多いけど、実は心のなかで、

「奉仕欲」なるものを燻らせている身体障害者は、世の中、案外多いのではないだろうか。

また、学校の教科書なんかを見ていても、

身体障害者の方が困っていたら、積極的にお手伝いしましょう。」と書かれていることが多い。


これはとても有難いことだが、

「社会貢献」や「社会奉仕」に対して関心を強く持ち、いわゆる「奉仕精神」のある身体障害者もいることを、どうか忘れないで頂きたい。

世の中、本当に色んな身体障害者がいる。

健常者と同じで、善人もいれば悪人もいるのだが、「身体障害者」=「ずっと助けられてばかりの人」だとか、「身体障害者」=「聖人君子」だとか、

そういうイメージが独り歩きしている印象がある。

そうではない身体障害者もいるのだ。



まあ、乙武さんの一件で、

身体障害者=聖人君子説」みたいな都市伝説は、だいぶ崩壊したと思うがw

もちろん、障害の有無に限らず、助けられた時はちゃんとありがとうと感謝すべきだが、

身体障害者自身も、ずっと人に助けられてばかりでもいけないのではないか。

個人的にそう思う。

高校時代の担任であった東野先生は、こう言っていた。


「クラスメイトが、井口の階段の昇り降りを手伝う。それにたいして井口が、授業のノートを見せてやる。お互いに助け合って生活出来たらいいね。」

未だに覚えているのだから、よほど印象的だったのだろう。

お互いに助け合う社会の構築。

俺もそれは理想的で、大変素晴らしい考えだと思う。

冗談まじりで俺の友人たちが、

「階段の昇り降りを手伝っただけで、井口の授業のノートを見ることが出来るの?マジで?授業中ずっと寝ていたから、俺も見せて欲しい。」だとか、

「井口が真面目にノートを取った時間と、階段の昇り降りを手伝った時間。全然対等ではないし、割りに合わんやろ。せめて1000円ぐらい貰っても良いぐらい。」だとか言っていたw



今後も社会の構成員の一員として、その片翼を少しでも担っていたい。

きっと俺は、過去世から脈々と伝わる悪しき業を受け継いでいると思うので、現世にてしっかりと徳を積み、そして華麗に死にたい。



ここまで話が長くなったが、

「奉仕欲」の強い身体障害者も存在しているということである。

また、健常者や障害者の垣根を越えて、

お互いに人間として、助け合えたら理想的だなという話であった。


おしまい。

有限的な人生 時間の使い方

どうも。

人生は短いー。

セネカはそう言っていたが、

俺にとっては長く感じる。

学生時代はあっという間に過ぎ去ったが、それが終わった途端、何か消耗したというか、燃え尽きた感がある。

俺は特別支援学校ではなく、いわゆる健常者の通う一般的な学校に通った。

身体障害だけなのだから、極力普通の学校に通わせたいという母親の意向があった。

通えるならその方が良いと、保育園の園長先生もそう言った。

幼いながらも、俺もその方が良いと考えていた。

通いだしてからは、とにかく周囲の環境に合わせるのが大変だった。

中学時代までは、腰と両足にコルセットを装着していたのだが、特にトイレに行くのがしんどかった。

「用を足す前に一旦コルセットを取り外す→用を足す→また装着する。」というプロセスを経なければならなかった。


結構これが時間がかかるため、休み時間の10分間は必死のパッチだった。

(次の授業が移動しなければならない時は、本当にヤバい)

学校側は、授業に少し遅れても良いと考慮してくれていたが、俺自身のプライドがそれを許さなかった。

授業に遅れてはならないと糞真面目に思っていたため、移動を伴う授業の際には、トイレには行かず我慢した。

特に音楽の授業がヤバかった。


中学はエレベーターも設置されてなかったから、階段を昇り降りする介助を行ってもらう必要があった。

介助してくれる先生は決まっていたのだけど、来てくれることが遅い時もあった。

いや、手伝ってもらえるだけで有難いし、向こうの先生たちにも都合があるのは分かるのだけど、内心、本当はもっと早く来てくれと思っていた。

それでも先生たちには文句を一切言わず、ただただ「感謝」のみを伝えていた。


関係性にヒビを入れては何かと不都合が生じるだろうし、穏便なフリをしている方が何かと都合が良いのだ。



しかも音楽教室が1番上にあったため、普通にトイレに行ってたら、間に合うわけがなかった。

あんなの絶対無理ゲーだろw

とにかく根性だけで通っていた感がある。


あの経験が、どうすれば上手くいくのかと考えるきっかけになったし、創意工夫を行う「思考力」が培われたと言っても過言ではない。

若くして俺は、「忍耐」と「打算」を覚えた。


高校時代は途中からエレベーターを設置してもらえたし、コルセットも装着しなくて良いとなったので、中学時代よりかは快適であった。

(予算もおりたし、日頃井口は頑張っているので、エレベーターを設置すると東野先生に言われた時は嬉しかった)



必死になって周囲の環境に合わせていた頃が懐かしい。

それが終了となった瞬間、何か緊張の糸がプツリと切れた。


今は本当に穏やかな生活となったが、穏やか故に張りがなくなってきているとも感じる。

これ以上、人生の消化試合が続くかと思うと、辟易する。

そんなことをここで言ってる奴が、時が経てば、反対のことを言ったりしてなw

今は29歳で、10月がくればいよいよ三十路となるが、さてこれから何に時間を使っていこうか。


最近、この年齢になって、こう考えることが余計に多くなってきた。

たった一度きりの有限的な人生だ。

今までの人生において、

後悔しまくったことなんていくらでもあるが、悔いのない人生を歩みたい。


こうやって悩んだり、ブログを書いて回顧している間にも、時は刻一刻と進んでいる。

確実に、人生の最終的なゴールである「死」へと向かっているのだ。


果たしてこの限られた時間を、どんな風に使っていくべきなのか。

それを考えることこそが、人生において1番難しいのかもしれない。

(時間だけでなく、お金の使い方も)

勉強や仕事、恋愛に費やすのも良し。

趣味に興じたり、親しい人たちとの交流を深めるも良し。

未経験のことを、どんどん積極的に行っていくのも良し。

また、ゆっくりと静かな時を過ごし、己の精神や心を豊かにするのも良しだ。


自由に費やして良い時間。

自由だからこそ、こうやって悩むのだろうなきっと。

読者の皆さんは、果たしてどのように費やすのだろうか。


おしまい。

身体障害者は「悟りの時期」が早いと思う

どうも。


26歳の頃の俺は、当時付き合っていた彼女と、3日連続で同じホテルに泊まり、ずっとセックスしたこともある。

全身筋肉痛で、バッキバッキのボッキボキで嬉しい悲鳴をあげていたが、あの頃は本当に若くて楽しかった。

今もそれなりに楽しいが、もうあんな風に愛し合ったり、連チャンでセックス出来るほどの体力はないだろう。

ちゃんとゴムはつけていたが、

後先も考えず、よくあんなことをしていたものだと、感心するぐらいだが、今は違う。

どうしても先の展開を考えてしまうし、あんまり冒険をしなくなったなと感じる。

保守的であり、より「じじい」に近づいているのではないだろうか。

俺みたいな車椅子常用の身体障害者は、悟りの時期も早いかもしれない。

先天的な障害者の場合、すでに何かしら失っている状態から人生がスタートしているため、

「ただ生きている」というだけでも、そこに有り難みと尊さを感じやすい。

俺の場合、どう足掻いても、自分の足だけで歩いたり走ったりすることは叶わない。


「自分自身の境遇に対して嘆く→諦めて受け入れる」というプロセスを嫌でも辿ることになり、

早い時期から「足るを知る」のである。

状況や境遇、ひいては環境によって人間は規定されるものだというが、障害者の場合は間違いなくこれが該当すると思う。


ある知り合いに、

「井口君ってなんか仙人みたい。」と言われたことがあるが、あながちあのセリフは、間違いでもない
気がする。

もしかしたら彼に、それを見抜かれていたのかもしれない。

その 人の心眼は、恐るべきものがある。



(追伸)

今日スマホで、無料の前世占いを見ていたら、

「あなたの前世は教会の神父さんでした。」という結果が出てきた。

よし、悩める子羊たちを救いにゆくか。


おしまい。


















おしまい。

チャットが好き

どうも。

電話はあんまり得意ではないが、LINEなどのチャットは結構好きだ。

文章を書くことは大好きなので、ダラダラ続けても別に苦にならない。


トイレや風呂に入る時間をくれるなら、死ぬまでの間、ずっと続けることが出来ると思う。



最近、出会い系アプリを始めてから、本当に色々なタイプの女性がいるものだと気付かされる。

電話が好きとか、チャットが好きとか。

基本的に相手に合わせるようにしているが、出来ればチャットの方が有り難い。

別に俺はイケボ(イケメンボイス)でもないし、文章を考えて頭を捻る作業をしている方が、面白いと思える人間だからだ。

出会い系アプリに遊び半分で課金して、何人かの女性と実際に会ってみたが、割りと面白いなと感じた。

俺はデート代は男が出すものだと考えるタイプの人間なので、基本的にこちらがお金を出すようにしている。

だが、借りを作りたくない女性や割勘が良いという女性もいると思う。

なのでそこは向こうの考えを尊重して、ケースバイケースで対応することを心掛けている。

ちょっと退屈しのぎには丁度良いので、この出会い系アプリも、しばらく続けてみようと思う。


おしまい。

はてなブログというキャンバスに向かって描く

どうも。

文章を書くためのこの真っ白なスペース。

まるで絵を描くためのキャンバスだ。

日本語を絵筆のように駆使し、自分の考えや想いを、自由に書き込むことが出来る。


「今日はどんな絵を描こうか」

そう思いながらキャンバスに向かうように、

「今日はどんな文章を書こうか」と、この真っ白なスペースに向かって心をワクワクさせ、そして頭を捻る。

何度も文章を練り直しながら、前へと進む。

俺の人生において、こうやって文章を書いている時が、もしかして1番楽しいのかもしれない。

そんな風に感じた1日だった。

おしまい。