井口佑斗のブログ

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孔明は何に関心を寄せ、そして何を学んだか その3(最終回)

前回の続き。

群雄割拠の状況においては、時代の流れは確実に、実学が必要とされていくだろうと予測し、実際にそれを学んでいた諸葛孔明であったが、


「泣いて馬謖を切る」、「法正とのやり取り」

これらのシーンを見るだけでも、

孔明の政治は、賞と罰の基準を明確にしたルールを作り、そこに一切の私情を挟まず、厳格にそのルールを実行するという、

「信賞必罰」を重きにしていた。

つまり孔明は、法家思想を持った、法治主義者だったと分かる。


人民への信賞を、支配者の恣意的な判断に任せるのではなく、客観的なルールを作り、それに基づいた上で、合理的に国家を運営していくという点が、奇しくも、敵対していたあの曹操と同じだった。




また、孔明は、単に法治主義者というだけでなく、そこには、多面的な人物像を見てとれる。
(風水に詳しいという道家の思想が見られたり、墨家十論の影響を受けているのではないだろうかと思われるような場面が、多々見られたりする)


これも、時代の流れに逆らい、儒教縛りをせずに、様々な書籍を読み、己の見識や見聞を広めてきた結果、その賜物と、見ることが出来るのではないだろうか。


おしまい。

孔明は何に関心を寄せ、そして何を学んだか その2

前回の続き。

前回の記事では、

孔明は、訓詁学のような学問を避け、様々な書を読み、その大略や大意を把握し、己の見聞を広めることに力を注ぐということを、自身のスタイルにしていたと書いた。

また、彼の若い頃の関心事は、「経済と軍事」にあったとも書いた。




黄巾の乱を契機に、中国大陸は、王朝体制の崩壊と共に、群雄割拠の時代に突入したが、同時に、学術面においても、儒教一尊から多様化の時代へと突入していった。

とりわけ、群雄割拠の状況においては、

「軍事・政治・法律・経済」という実学的な学問が重宝されやすくなるが、

すでに、この時から孔明は、儒教なども大事ではあるが、しかし今後は、実学こそがクローズアップされ、一番必要になると、時代の流れを読み取り、直感的に感じ取っていたのだろう。


実学を学ぶ上で、この時代の知識人たちに重視されたのは、歴史書であった。


そこには、あらゆる人間活動の姿が記録されており、そこから自分自身の生き方や天下平定の方策を、学び取ることが出来るからである。

孔明もまた、「国語」、「春秋左氏伝」、「史記」、「戦国策」、「東観漢記」、「漢書」などの歴史書から大いに学んだのであろう。

時代の流れを読み取りながら、

「果たして自分は、一体何をどのようにして学ぶのか」


遊学していた時点で、このようなことを考えているあたり、やはり非凡な才を有していたと、分かるのである。

次回に続く。

3歩下がって男性の後ろをついていく、尽くすタイプ

熊切あさ美のような3歩下がって男性の後ろをついていき、尽くしまくる女性とか、今は絶滅危惧種だろ。

尽くす度合いも、本人も言っていたけど、家政婦通り越して、もはや介護レベルだった。


あんなに尽くされたら、男の方が何も出来なくなり、骨抜きにされてしまいそうだけど、こっちも優しくしないとなと素直に思える。
(そんなに気遣いせんでええよと、逆にこっちが気を遣う羽目にw)


なぜそのように尽くすのかと尋ねられて、

「家庭内で父親の立場が強く、幼い時から、父親の言動は正しいと言われて育ってきた。男性に尽くすことが当然だと思っている。」と答えていた。

なるほどな。

これを聞いて、ひとりで納得した。


父親の立場が家庭内で、強かったか弱かったかで、

男性への態度や接し方が決まってくるのだと。

子ども時代に受けた家庭内の影響は大きく、計り知れないなと思った。


別に今は、結婚願望がないけど、

もし結婚するならば、熊切あさ美と結婚したい。

いや、結婚しないだろうけど。

孔明は何に関心を寄せ、そして何を学んだか その1

諸葛孔明

天才軍師だとか、1000年に1度の逸材だとか、今日でもこんな風に称されることの多い男であるが、一体彼は、どんなことを学んだのだろうか。

そのルーツを探っていきたい。

孔明は10代の頃、「徐庶・石トウ・孟建」と一緒に、遊学した。


当時の学術の主流は、訓詁注釈(くんこちゅうしゃく)というものであった。


これは、儒教の経典の一字一句に、細かい解釈を施したり、注釈をつけたりしていくのだが、仲間たちがこの学問に打ち込む中、孔明はこれを避けた。

重箱の隅をつつくような学問はせず、様々な書籍を読んで、その大略や大意を掴み、己の見聞を広めることが大事だと思っていたからだ。


正統教学である儒教も、その大略・大意さえ心得ておけばよいと考えていた。

また、当時の彼には、目標とする人物が、2人いた。

管仲楽毅」である。

管仲」は、春秋時代の斉の宰相で、経済政策を重視した人であり、もう一方の「楽毅」は、戦国時代の燕の軍略家で、滅亡寸前の燕を救い、仇敵の斉を追い詰めた人である。


孔明は、彼らのような人物になりたいと考えていた。


ここから分かるように、若い頃より関心を寄せていた学問は、実学である「経済と軍事」だったのである。

孔明の天下三分の計は、本当にベストな戦略だったのか 最終回(その6)

前回の続き。

西暦215年、荊州の領有を巡り、孫権との関係が悪化した。

荊州南部の東半分の返還を余儀なくされた。

西暦219年、樊城の戦いで関羽が戦死し、荊州の支配権は、魏と呉に分割されてしまう。

西暦222年、劉備は、夷陵の戦いで敗北し、翌年の西暦223年、白帝城にて死亡した。

孔明の天下三分の計の構想は、遂に破綻をきたしたのであった。

どの辺りで構想の破綻が起きてしまったのだろうかと見れば、ホウ統が戦死した時点ではなかろうか。

ホウ統の死が、結果的に関羽の立場を苦しめ、荊州の失陥を招いたと言ってよい。

天下三分の計。


追い込まれた劉備が、生き残るための唯一の道であった天下三分の計。


劉備孫権曹操の力関係からすれば、この長期的な持久戦略を、弱小勢力の劉備が、選択せざるを得ないのは、当然と言えば当然であった。

動員兵力や生産力に直結する人口数が、魏が圧倒的であり、もう戦う前から既に詰んでいたという意見、呉との同盟関係の維持なくしては、蜀は成り立たないので、常に呉がキャスティングボードを握り続けており、呉の思惑や対応に、蜀側が振り回されやすいという点。

3年という年月を空費せず、劉備成都攻略がすぐに行われていれば良かったなという点。

天下三分の計の悪かった点や悔やまれる点はまだまだ列挙できるだろうが、劉備を三国鼎立の一方の雄にのしあげたのも、この天下三分の計なのである。

劉備の死後も、孔明は漢室再興に向けて、戦い続けていくが、1000年に1度の逸材と呼ばれた孔明でさえも、人の死を止めることは叶わなかった。

当然と言えば当然なのだが、ホウ統、法正、関羽張飛劉備・・・。

彼らが、まだもう少しだけ生きてくれていたなら、どれだけ良かっただろうか。

歴史にもしもの話はないが、しかしそう思わずにはいられないのである。

孔明の心情を偲びながら、これにて終わりとしたい。

孔明の天下三分の計は、本当にベストな戦略だったのか その5

前回の続き。

西暦211年。

劉備は、劉璋からの援軍要請を受けて入蜀を果たしたが、すぐに蜀攻略を行ってはおらず、およそ3年という年月を、空費している。

これはなぜか。

それは、益州の牧であった劉璋が、劉備と同じ劉氏の一族だったからである。

曹操孫権に比べ、己の確固たる基盤を持たない劉備にとって、漢室再興を掲げ、これを主張することこそが、最大の武器であり、正義の旗印であった。

それなのに、同族の土地を奪うことは、そこに矛盾が生じてしまい、己の正統性が崩れ、今まで歩んできた道を、全否定してしまうことにもなりかねなかった。

矛盾したことを行えば、せっかく今まで築いてきた民衆や豪族からの劉備への信頼感が、ガラガラと崩れて去ってしまうのではないか。

ここに、劉備の躊躇いと危機感があったからこそ、入蜀してからすぐには攻略せず、3年も空費したのだろう。

また、穿った見方をすれば、

「仁者劉備」のイメージを、少しでも損わないようにするために、わざとここで、躊躇っておいた。

そう見ることも出来る。



確かに、孔明の天下三分の計は、劉備に生き残る道を示した。

はっきり言うが、劉備が生き残る唯一の道だと言っても過言ではないだろう。

最後のラストチャンスを、劉備に与えた孔明は素晴らしいが、この同族問題という点を見るに、「仁者」というイメージで名を売っていた劉備にとっては、益州攻略のために、裏切りの戦をせねばならず、諸刃の部分も、少なからず存在していたということだ。

次回に続く。

孔明の天下三分の計は、本当にベストな戦略だったのか その4

孔明の天下三分の計についての記事も、これで4回目となった。

いつまで続くか分からないが、ボチボチ書いていきたい。


前回の続き。


前回、孫権の前で大胆にも、荊州の領有宣言を行った孔明であったが、

彼の思い描いた構想通りに、事態は推移していった。

孫劉連合は、赤壁の戦い曹操軍を破り、孔明の予測通り、曹操は一旦、北方へと軍を撤退させた。

その間、孫権軍は、江夏・江陵の占領に成功した。

一方の劉備軍は、武陵・長沙・桂陽・零陵の荊州南部四郡を獲得した。

劉備陣営は、荊州全てを獲得することは出来なかったが、益州攻略のための取っ掛かりとなる足場は、獲得したことになる。

その後劉備は、孫権の妹を妻に迎え、荊州北部を借用し、孔明の構想は、さらに前進した。
(赤壁の戦いにおいて、曹操の大軍を破ったのは、主に呉の陣営であったにも関わらず、荊州の土地を劉備に渡して良いのだろうかという不満が、呉の陣営内に燻り始めていたため、しばらく借りておくという形式を取った)



そして、天下三分の計を具現化するためにも、劉備陣営の次なる目標は、益州を奪うことであったが、
しかしそれを実行するためには、口実や大義名分が必要であった。



ここで、幸運なことに、

西暦211年、張魯曹操による領地への侵攻を怖れていた益州の牧・劉璋から、張魯討伐のための援軍を出して欲しいと、要請されたのである。

これはまさに、好機であった。

劉備陣営はこれで、入蜀するための大義名分を得たことになる。

西暦211年12月、劉備陣営は、入蜀を果たし、葭萌関に軍を留めた。


翌年、張魯討伐に行くと見せかけて、その矛先を転じて、成都への進撃を開始した。


この間孔明は、荊州の江陵にいた。

天下三分の計は、荊州益州の東西から、中原を挟撃しようというものであるから、孔明はここを離れるわけにはいかなかった。

軍師としてホウ統が、劉備に同行することになったが、蜀攻略の最中に、戦死してしまう。

この報を受けて孔明は、関羽に留守を預け、自らも戦線に参加し、西暦214年5月、遂に成都の攻略に成功した。

中国大陸は、孔明の構想通りに、三国鼎立時代となったのである。



次回に続く。